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市ノ瀬橋  天草市本町下河内 広瀬川


 現在は脇に新道が建設されたため、交通量は減ったが、現役の橋である。
 私も中学生の頃、この橋を渡って本渡ン町へ遊びに行ったものだ。
 橋げたも当時のままでうれしい。

 架橋  明治24年(1891年)ころ
 石工  大塚光治他
 長さ  22.2m
 幅   4.65m


市ノ瀬橋
本渡市指定文化財
  
市ノ瀬橋と石碑
           指定年月日 昭和
5919
           管理者   本渡市
  
 この石橋は太鼓型めがね橋で、橋長22.2m、橋幅4.6mある。明治15年4月最初の橋が架けられたが明治19年7月洪水により倒壊、その後の再建年代は不詳。地元長老の話では富岡線の県道とともに完成したということであり、明治23〜4年頃と思われる。石碑の表には何も刻まれていないが裏には世話人たる佐藤信邦外、石工、大工等の指名が刻まれている。
   本渡市教育委員会

 

 

 旧市ノ瀬橋は明治15年に石橋として架設されたが、明治19年7月の洪水により流失した。
 この石橋が眼鏡橋であったかどうかは分からない。
 流失した石橋に替え、県は土橋の架け替えを計画した。
 これに対して村側は、土橋の材料となる木材が入手困難であることを理由として、石橋の架橋を請願した。
 結果、村方の願いは適い、立派な石橋・眼鏡橋が架橋された。
 橋の完成は明治24年であった。
 この石橋は、耐久性と強度に優れ、昭和54年バイパスの一の瀬橋が出来るまで、主要道路として、重要な役割を担ってきた。
 なお、この市ノ瀬は、現在も車道として立派に役目を果たしている。


 
架橋記念碑に刻まれている氏名
 ただし、橋名、架橋年月日は読み取れない

 周旋人 佐藤 信邦  前田 直七  金子 茂平
     佐藤 敬造  岡部 有造  岡部 幾次
     毛利 文吉  岡部 熊太  岡部 新造
     松山口二郎  岡部 市郎  金子市太郎
     森  鶴松  酒井 道人  福田又七郎
     前田 □□  森  亀吉  松浦 藤吉
     □□ □□  □□ □□  岡部 □造
 石 工 下浦町    大塚 光次  橋口 直吉
            大塚 □□  大塚 □市
 大 工 岡部 数平 

   明治十九年度第四拾六号路線字市ノ瀬橋
   臨時架換目論見変更ノ義二付上申


客年七月中非常ノ洪水ニテ当下河内村字市ノ瀬石橋流失二付臨時石輪橋架換ノ義同月中上申仕検査官出張之際土橋架設ノ義御回達モ有之候処村方一同石橋建築奉願度情願二付其段同十一月中再上申仕候処御聞届難相成旨御指令ノ上終二土橋架換ノ義客年十一月十九日付ヲ以テ御指令相成候二付一旦石橋架換ノ義ハ村方一同断念仕土橋着手ノ積先般来用材等見積方仕候処元来用材乏敷上御下附相成候土橋目論見書中松丸木末ノロ尺二寸長三丈二尺八本全長二丈八尺四本杉丸太長二丈四尺末ノロ壱尺六本其他右二準シ多分ノ杉松用材有之候処右等立木村内山林二無之他村遠隔ノ地二相求メ候テハ如何様多人相掛ケ候モ運搬出来不申殆ント手ヲ束子当惑罷在候仕合然ル処元来村方石橋切望ノ上前述用材排底二付テハ一層憾覚ヲ増シ是非石橋架換奉願度申出候義二御座候尤十九年度土木経費ノ御都合ニテ石橋ノ御許可難被為叶義ニモ有之候ラハゝ来二一年度二差延候テモ石橋架設奉願度村民共情願二御座候間前陳照察ノ上特別ノ御詮議ヲ以テ何卒十九年度二於テ石輪橋二御変更被成下度別紙目論見帳相添此段上申候也

  明治二十年二月十四日  天草郡本村外ニケ村戸長
                                   佐藤信邦 □印
  熊本県知事 富岡敬明殿
                                   天草郡下河内村
  一石輪橋 長拾壱間 幅三問
   此平坪三拾三坪
    是ハ明治十五年四月架換本年七月洪水ニテ落橋二付架換之積

                                   (天草高校図書館蔵)

   以上史料は 「本町の歴史」 本渡市本町公民館発行 より