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楠浦の眼鏡橋  天草市楠浦町 方原川
  楠浦諏訪神社横の方原川に架けられている石橋が「楠浦の眼鏡橋」である。この橋は、宗像堅固の尽力により、明治11年に架けられた。明治11年といえば、かの大乱「西南の役」の翌年である。この役の最中、天下の名城熊本城は消失したが、天草では後世文化財となる、この楠浦の石橋が造られた。
 石は下浦石。祇園橋を初めとして他の石橋も下浦石と思えるが、地元に石橋に適した石があり、かつ石橋を造ることができる、技術と石工が地元に存在したということも、石橋建設に必要なことであった。
 下浦は瀬戸海峡を隔てた地にあり、石を楠浦まで持ってくるには、海上を運搬しなければならない。恐らく宗像堅固が開削した釜の迫堀切を利用したに違いない。
陸地の運搬は、相撲取りの一文字が木馬に載せて、牛に曳かせて運んだという。
 石橋建設には、石工だけでなく、仕保工という木の枠組みつくりも重要である。この支保工を造ったのが、楠浦の大工和田茂七である。茂七は九州各地から引っ張りだこの優秀な大工であったという。
 石工は、下浦の松次、打田(栖本)の紋次だという。眼鏡橋際に楠浦の諏訪神社がある。この神社に明治10年建立の鳥居が現存する。この鳥居には、発起が宗像健吾で、石工が3人刻字されているが、そのうちの一人に横山松次となっている。この横山松次は、石橋の松次と同一人物であることは間違いない。
 
 九州本土には、古くから眼鏡石橋が架けられているが、天草ではこの楠浦の眼鏡橋が一番古い。それでは、宗像堅固は、なぜ費用も掛かる石橋を架けようとしたのだろうか。
 もし、この橋がなかったとしたら、どういう状況であったかを考えてみよう。
 多分木橋はあったと思うが、洪水の度に流されたり、腐朽により架け替えも頻繁であったろう。もし、木橋が壊れていた場合は、そんなに川幅が広いわけではないが、川を渡るには大変不便であったことは、想像に難くない。

 この石橋は、宗像堅固が企画したとされるが、堅固がどれくらいの割合で関わったのであろうか。橋建設の費用は248円59銭であったというが、費用の捻出はどうしたのだろうか。
 着工は、明治11年6月に着工し、8月に完成したというが、石の切り出しから、細工までは随分時間が掛かったことが、容易に想像できる。


楠浦の眼鏡橋  熊本県指定文化財
  
楠浦の眼鏡橋

       指定年月日 平成18年5月29日

 楠浦の眼鏡橋は、楠浦と宮地(現在の新和町)とを結ぶために方原川に架けられた石橋である。架橋に尽力したのは第一三代楠浦村庄屋宗像堅固で、明治11年(1879)に完成した。石材は下浦石という、地元天草の加工しやすい砂岩で、石工は下浦の松次、打田の紋次、足場組枠大工は楠浦の和田茂七である。
 楠浦の眼鏡橋は、橋全体が緩やかなアーチをえがいており、ほかの石橋に比べて壁石が薄く、特にアーチ中央部は壁石がなく輪石のみという点が特徴的である。その姿は優美だが大変堅牢な橋である。また周囲の田園風景とよく調和し、特に楠浦諏訪神社秋季例大祭に神幸行列が橋を渡る様子は壮観である。

天草市教育委員会・天草市楠浦地区振興会

 
<参考> 本渡市指定文化財当時の案内板内容

本渡市指定文化財   楠浦の眼鏡橋  

  指定年月日 昭和33年5月1日
  所在地   本渡市楠浦町字中田原


 この眼鏡橋は、楠浦〜宮地往還を結ぶために方原川に架けられたもので、釜の迫の掘切りと共に、楠浦村庄屋宗像堅固氏の威徳を後世に伝える二大事業の一つである。アーチ型の石橋は優美にして且つ堅牢、橋長26m33cm、橋巾3m05cm 明治11年6月11日から80日間で完成している。石材は下浦石で、石工も下浦の松次、打田の紋次、足場枠組大工は楠浦の和田茂七である。宗像庄屋はこの架橋工事の25年前に前潟新田の水害を救うため、方原川の下流を変える釜の迫の堀切りの大工事をなし遂げている。即ち万延元年(1860)から元治元年(1864)まで実に5年余りの歳月と延4万5千余人を使った大工事であった。削河碑は、方原川が「なきごしの海」に曲がる河畔に建てられている。
 
本渡市教育委員会


《註》宗像堅個は正しくは堅固