国照寺 円通寺 苓北町志岐
国照寺 | |
万松山 国照寺 宗派 曹洞宗 開基 正保元年(1644) 所在地 苓北町志岐 開基 鈴木重成 開山 一庭融頓 特徴 天草四ケ本寺の一、寺領45石 |
円通寺 苓北町志岐 | |
《註》円通寺は老朽化のため解体され、現在は本堂は無い |
円通寺 中央のこんもりした山にある。 志岐城址より望む |
白華山 円通寺の由緒 白華山円通寺は、天領天草の初代代官鈴木重成公によって、最初に創建された天草郡中の祈祷祈願寺である。1637年秋〜38年春(寛永14〜15)の天草島原の乱から5年の歳月を経て、1643年(寛永20)、重成公の兄、石平正三大庵主を開基・勅特賜了外廣覚禅師一庭融頓大和尚(長崎・皓□寺伝法開山)を拝請開山として当山は創建された。 歴代23世と356年の星霜を経た由緒ある当寺の本堂再建は断念されたが、寺域を整備し、本尊の阿弥陀如来と二十五菩薩は、1994年(平成6)7月に苓北町文化財指定を受け、現在、本寺の萬松山国照寺の本堂横に建立された阿弥陀御堂に安置されている。 |
阿弥陀如来と二十五菩薩像 国照寺 |
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阿弥陀如来と二十五菩薩の由来 鈴木重成公が上方代官として大阪におられた時、隠田(脱税のための隠し田)が多数発覚し、伏見奉行小堀遠州は、男女全員数十名の死罪を下知された。 しかし、重成公は、「隠田は確かに重罪だが、家康公以来、この様なことで女子供まで処刑されたことはない。身命をかけても救わねば。」と伏見奉行と談判され、一方、この間、正三和尚は一晩中読経して神仏の加護を祈られた。そして遂に、女子供のみは助命と決した。 その後処刑された人々の私財は、管轄していた代官に賚賜された。そして、それを受けた正三和尚は、隠田処刑の人々の菩提を弔うため、阿弥陀如来と二十五菩薩像を刻み、足助(現・愛知県東加茂郡足助町)の十王堂に祀られた。 然るに、鈴木代官御来島の折、この一佛二十五菩薩像は、寺社や仏像が乱によって失われていた天草の信仰の拠り所になるようにとの重成公と正三和尚の思いが込められつつ、足助の地よりはるばる天草まで移されたのである。 因縁深いこの一佛二十五菩薩像は、隠田処刑の人々と天草島原の乱の犠牲者の供養仏であると共に、天草島民のために、4万2千石から2万1千石への石高半減を嘆願(将軍直訴)し、切腹して一命を捧げられた重成公の持仏であり、今なお島民の平穏無事を祈願する祈祷仏である。 尚、近年では、1998年(平成10)5月に円通寺の境内整備にかかり、阿弥陀如来石尊像・山門・東司・白塀等を建立した。歴代墓地も整備し、五輪の塔を建て、安住を懇願した。 1999年(平成11)6月に落慶法要を厳修し、現在に至る。 1999年(平成11)6月吉日 国照寺住職 円通寺兼務住職 活融琢道 (清元) 合掌 |
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≪管理者雑感≫
管理者には宗教観はないが、古刹と言われるお寺を訪れるのは好きだ。 |