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天草大水害 7.6水害

 1972年(昭和47年)7月6日、突然の豪雨が上天草を襲った。一時間の降雨量が130mm、1日の総雨量が447ミリにも達するという豪雨である。
 この集中豪雨で、山津波が発生、姫戸町、龍ヶ岳町、松島町、倉岳町(いずれも旧町名)などに被害が及び、
 死者・行方不明者115人(116人とも)、
 重軽傷者249人、
 家屋の全半壊750戸、
 浸水家屋3859戸、
 その他、道路や農地など見るも無残な姿に変わり果て、被害総額は238億円にも上がったという。
 
 これほど甚大な被害が起こった原因は、集中豪雨もさることながら、天草の地形が大きく関係しているようだ。風光明媚な天草島であるが、急峻な土地にへばりつくように人家が密集している。しかも、痩せて、石ころだらけで、今にも崩れそうな地質である。
 今は緑の山となり、当時の面影は残していないが、山という山は、巨大な怪獣が爪で引っかいたような悲惨な状態であった。
 自然災害の恐ろしさをまざまざと実感したものだ。
 私も当時、電力関係の仕事をしていたので、被災時直後に現地に入り、不眠不休の復旧活動に従事した。なにしろ、地形が全く変わってしまっていて、どこがどうなっていたか検討も付かない状態であった。
建てる電柱がない。道が寸断され車が使えない。被災地への移動は船に頼るしかない。しかし、海も流木で航行もままならない。特に夜間はライトで海を照らして流木を避けながらの航行である。
 旅館も被災し、飯がない、寝るところがない。それでも無理を言って泊めてもらい、戦場さながらの復旧作業であった。
 勿論自衛隊も救援に駆けつけてくれた。自衛隊は竜ヶ岳中学校にテントを設営していたが、隊員の一人が過労で亡くなったと聞いた。
 現在上天草町竜ヶ岳支所(旧龍ヶ岳町役場)は当時上天草総合病院であった。中央玄関は土石流で埋まっていたことが記憶にある。
 時折、遺体を掘りあげている現場に出くわしたときは、合掌しながらの復旧作業であった。

以下に慰霊や復興の碑を紹介する。
ただ、碑を見つけていないのかもしれないが、未曾有の被害者を出した大水害の割には、慰霊の碑が少ないように感じる。


上天草市姫戸町にある殉職の碑




ある企業の慰霊碑。姫戸




























上天草市竜ヶ岳町にある建郷の碑


上天草市龍ヶ岳町小屋川内







 昭和47年7月6日午前11時20分、上天草を襲来した集中豪雨により山津波が発生し、我等が小屋川内郷に於いても未曾有の壊滅的打撃を受けた。
 災死者(以下亡くなった方の氏名と年齢のため略。)8名の尊い物故者を始め住家の流失埋没47戸、半壊4戸、床上床下浸水全戸に及ぶ惨状となったが、この災禍中から区民挙げて祖先墳墓の郷土再建に奮起し、安住の地を求めて海面を埋め立て郷を築き、ここに移住する。
 昭和51年7月6日 建立
  小屋川内区民一同











旧倉岳町 水害復興の碑

天草市倉岳支所にある
水害復興の碑

裏に碑文が彫ってあるが、大変読みづらく、紹介できない。