いしぶみ 水の流るゝ如く悠久幾千万年、幽玄神秘の鍾乳洞、奥行124m、洞奥に御二体阿弥陀如来御安置。向かって右側、享保19年甲寅(1734)、八代将軍徳川吉宗の治世、栖本町円性寺住職真誉観円法界結縁のため寄進。同台座に砥岐大庄屋田安衛門、二間戸村庄屋田中安兵衛の添書あり。向って左側、明治18年1月、二間戸村字神代区成願主議員中松四郎兵衛、古賀弥平次、山下友七外若者中の寄進。暗黒の闇の中、法界結縁と衆生済度のための、252年の歳月を数ふ。権現様並祠は、明治9年、瓦葺の堂宇と共に二間戸本郷竹中重次郎の寄進。堂宇は後年火災のため灰塵に皈す。 昭和59年4月1日、神代区に於て権現道路開通式並阿弥陀如来250年、同99年法要、権現様109年祭を神仏式にて盛大に行ふ。之を記念し神代区並ゆかりの人、相はかり此のいしぶみを建立す。 昭和61年10月吉日 神代区 栖本町 円性寺 竹中重次郎孫 竹中虎雄 古賀弥平次曽孫 古賀康□ 〃 〃 古賀兼八 〃 〃 堀江イツ 〃 〃 西岡フジエ 田中庄屋家末裔 田中秀穂 設計施工奉仕 松本組 (註 句読点は管理人にて記す。) |
普賢菩薩の由来 権現鍾乳洞北穴の石仏は古老の云い伝へに普賢菩薩と云はるるが寄進者氏名号等不明なりしが平成5年本渡市宮地岳町旧中西庄屋家の末裔中西隆昭氏より中西家の先祖が宮地岳町行人岳と二間戸穴権現に普賢菩薩を寄進したる旨代々庄屋家に云い伝えありと調査依頼あり。 翌6年3月中西家より行人岳(477m)普賢菩薩の祭礼に御案内を頂き参詣。同菩薩像前の碑に寛延3年(1750年)中西庄屋家4代中西忠左衛門は5代庄屋を弟亀右衛門にゆずり全国行脚四国に於て普賢菩薩御二体弁財天御一体を奉戴すと銘記あり中西家の御寄進と確認せらる。 御安置以来246年暗黒の北穴入口に或いは風雨に晒され北穴の仏様として神代区民の信仰篤きところである。茲而普賢菩薩の由来を誌し後世に伝えんことを願い由来の碑を建立す。 平成8年4月吉日 姫戸町文化財保護委員会 普賢菩薩は釈迦の高弟で仏の理知と慈悲の徳を司り衆生済度のためにつくされると云われます。 昭和47年天草大水害のため北穴に土砂流入し危険のため普賢菩薩像は権現鍾乳洞入口に御移転仮安置されております。 |