五足の靴文学碑
吉井勇の歌碑
北原白秋の歌碑
平野萬里の歌碑
木下杢太郎の歌碑
与謝野寛夫妻の歌碑
五足の靴関係碑
吉井勇歌碑 天草市天草町大江 大江天主堂内
左の歌碑は昭和27年に建造されたものだが、右の歌碑はその隣に平成13年に建造された。
新旧二つの歌碑が、隣り合って建っている。
白秋とともに泊りし天草の
大江の宿は伴天連の宿
天草曽遊之詩録一首 勇老痴
ともにゆきし友あらず我一人
老いてまた踏む天草の島
明治40年8月新詩社の与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の青年詩人たちがこの教会堂にガルニエ神父を訪ずれた。この五人の文学者の天草訪問は、のちに白秋の邪宗門となり一行の文学活動もこの旅を転機に躍進し華麗にして哀切な作品となって結晶し文学史上光彩をはなっている。
この歌碑はその新詩社同人の天草訪問を記念するために建設したものである。
昭和27年5月27日
天草市天草町大江
大江天主堂の碑
北原白秋の歌碑
天草雅歌 天草市本渡 天草切支丹館
明治40年8月「新詩社」主宰の与謝野鉄幹を中心に青年詩人北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の五人は切支丹遺跡を探訪のため天草島を訪れた。そして白秋は明治42年に明治文学史上不朽の詩集「邪宗門」を刊行した。「邪宗門」の中に収録された「天草雅歌」は浪漫と絢爛、色彩的な感覚に満ち、斬新にして妖しい香気をはなっている。白秋の「邪宗門」の扉を開いたのは天草の歴史的風土がその根源をなしているのである。
ただひめよ、
いいけるは、
あな、わがおとめ、
あまくさのみつのおとめよ。
ながかみはからすのごとく、
ながくちはこのみのあけにもつやくのしゅしたたらす。
ゆがはとよ、わがともよ、いざともにいだかまし。
くゆりこきぶどうのさけは
ぎやまんのつぼにもるべく、
もたらししじゃこうのほぞは、
ながはだのゆりにそめてむ。
よし、さあれ、ながちちに、
よし、さあれ、ながははに、
ただひめよ、ただまもれ、いつきしぬまで、
しいたげのつみのしもとはさもあらばあれ、
ああただひめよ、みくるすのあいのしるしを。
《註》没薬=もつやく= アフリカのソマリ山地 に産するかんらん科の低木の樹脂
から製したもので、健胃剤その他の薬にする。
玻璃=ギヤマン ガラス
斎=いつき=心身を清めて神につかえる少女。斎女(いつきめ)の略。
平野萬里の歌碑 天草市天草町大江 天草ロザリオ館
赤葡萄
たわわにみのり
風かをる
南の島を
けふも
さまよう
平野萬里歌碑建立にあたり
平野萬里は明治40年の夏、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇とともに天草の地を訪れた。五足の靴の旅である。
明治18年埼玉県に生まれた萬里は当時22歳、東京帝大の学生であった。大学卒業後、中央官庁にあって我が国の化学工業発展に尽力するかたわら、昭和22年に死去するまで46年間にわたり与謝野寛のもと新詩社の同人として作家活動を続けた。今般五足の靴百周年を迎えるにあたり、塩谷勝氏のご協力を得て、萬里にとって想いで深い天草に、この地で詠んだ一首を刻した歌碑を建立することとする。
平成18年新春
平野千里
協力者 天草町
木下杢太郎歌碑 天草市天草町大江 天草ロザリオ館
あまくさ
天草旅行の間、戯れに吉井勇に与ふ。
天草高来の民こそは
耶蘇の外法を伝へぬれ。
港に入れる、やあら、いよ、
勇魚追ひこしみやびをは、
さみどりの胸いとかたき
無花樹島の少女らに、
ああら切支丹伴天連の
恋の秘法ぞ伝へぬる。
注:原文は旧字体
碑文
木下杢太郎は本名太田正雄、明治18年(1885)静岡県賀茂郡湯川村の商家に生まれた。東京帝大医学部一年のとき、明治40年8月新詩社主幹の与謝野寛、北原白秋(早稲田大文科一年)吉井勇(早稲田大文科一年)平野万里(東大工学部一年)の五人が九州のキリシタン遺跡探訪の旅をした。有名な「五足の靴」の旅である。約一ヶ月ほどの日程で、一行が天草の土を踏んだのは8月8日、長崎県茂木港から天草下島の富岡港に上陸して一泊し翌9日、天草町大江まで炎天下32キロの険阻な山道を歩いた。其の夜は海岸近くの木賃宿に一泊、翌10日、大江教会で仏人司祭のガルニエ神父から話を聞き深い感銘を受けた。このガルニエ神父との会見が旅の中核となっている。この九州旅行の後、五人の文芸活動は噴出し、異国情緒の漂った南蛮文学が展開した。杢太郎は(黒船)(あまくさ)外不朽の作品を残している。
岐阜市在住の近代文学研究家塩谷勝氏は平成13年吉井勇第二歌碑を建設され、また五足の靴で中心的な役割を果たした杢太郎の功績を永世に顕彰するため自費で建設された。地元天草はもとより関係者一同塩谷勝氏に深く感謝の意を捧げ碑文とする。
平成16年(2004)7月24日
元天草町教育長 濱名志松 謹書
天草ロザリオ館の
木下杢太郎と平野萬里の歌碑
並んで建立してある左 木下杢太郎 右 平野萬里の歌碑