泊天草洋 頼山陽
《解説》
雲か山か呉か越か
水天髣髴青一髪
万里船を泊す天草の洋
煙は篷窓に横たわって日ようやく没す
暼見す大魚の波間に跳るを
太白船に当たって明月に似たり
あれに見えるは雲であろうか。山であろうか。それともシナ大陸の呉の地か越の地か。
水と空とがあたかも青い髪の毛を張ったように一線を画して連なっている。
はるばる京洛より来て、この天草洋に舟泊まりする。
夕靄は静かに船の小窓をこめて太陽は次第に西の海に沈んでいく。
おりしも大きな魚が突然波間に跳ねるのをみた。
空には宵の明星(金星)が出て船を照らしておりまるで月のように明るい。
頼山陽詩碑
苓北町富岡 苓洋高校先 山陽公園
建設の由来
文政元年八月(1818年)頼山陽が西遊の途次、長崎より茂木を経て、当時富岡の城下に開塾されていた儒者渋江龍淵をたずね来遊されたと伝えられている。
その時、西海天草灘の展望を詠いじたのが、この名吟である。
当地には文人名士の来訪多く、詩碑建設を勧めた。時の町長松本久太郎は建設を決意し、内務大臣安達謙蔵、本山大毎社長等の後援を得て、山陽研究家光本凰伏、広島県知事等の斡旋により、福山市藤井与一右衛門所蔵、山陽の真筆を写真版として碑面に刻んだものである。
頼山陽 像 苓北町富岡 富岡城
左 富岡城の頼山陽像
復元された富岡城には、頼山陽の他に、勝海舟、鈴木重成、鈴木正三の四体の像がある。
下 像説明文
頼山陽先生宿泊之跡 富岡小学校横
頼山陽先生、富岡を訪ねられる
山陽先生は父(春水)の3回忌法要をすまされて、九州の旅に出かけられました。
文政元年(1818)3月、先生が39歳の時です。長崎・天草・鹿児島・大分を歩かれていますが、その途中、富岡に開塾していた儒者渋江龍淵を訪ねられています。
この時、先生は天草灘の美しさに感動されました。そして生まれたのが、先生の代表作「天草洋に泊す」の詩です。
山陽先生が宿泊した旅館「泉屋」は、天保3年富岡の大火で焼失、昭和44年に「頼山陽先生宿泊之跡」の碑がこの地に建立されました。
(苓北町)
文政元年(1818年)八月頼山陽は西遊の途次儒者渋江龍淵を訪ぬるため長崎から茂木を経て来遊これ名吟「泊天草洋」を草稿された
そのときの旅館泉屋(岡部家)の跡がこの屋敷である
家屋は天保元年(1830年)の富岡大火により焼失した
明治百年記念事業として
昭和四十四年三月之建立
苓北町
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