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原城址


案内文より

 史跡 原城跡
    国指定 昭和十三年五月三十日

 原城は、明応五年(1496)、領主有馬貴純(八代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。
 城は、県下最大の平山城で、周囲三キロめーとる、四一万平方メートル規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害である。
 城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。
 











天草四郎像 天草四郎の墓 原城顕彰碑 別記参照 ホネカミ地蔵 下に説明文


城跡
 徳川幕府の キリシタン弾圧
 同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。
 天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の地獄と化した。
 時は、寛永十四年十二月(1637年)。
 幕府の征討将軍板倉内膳正重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。
 しかし、信仰に固く結束した、信徒軍の反撃に惨敗、重昌、自らも、戦死した。
 思わぬ苦戦に、あせった幕府は、老中松平伊豆の守信綱を急派。
 陸海両面より、城を包囲。
 やぐらを組み、地下道を掘り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。
 遂に、信徒軍の、食糧、弾薬共に尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と、相次いで落城。
 主将四郎時貞をはじめ、老若男女、全信徒相抱いて、古城の露と消えた。
 これ、寛永十五年二月二十八日である。
 その数、三万七千有余。
 思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ、幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。
 強大な武力と、権勢に立向かった、その団結と、情熱、信仰の強さ。
 遂に、悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に、痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを、内外に喧伝した。
 史家をして、
 「苛政に始まり、迫害に終わった。」
 と、いわしめた島原の乱。
 優美にして堅固。
 かつては、日暮城とまで讃えられた原城。
 いま、古城のほとりに立って、往時をしのべば、うたた、感慨無量。
 信仰に生き抜いた、殉難者の、みたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じえない。
 ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を、顕彰する次第である。

  昭和三十二年五月二十五日
    長崎県知事  西岡竹次郎