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不思議坂仏木坂) 苓北町志岐

 下り坂を車が登る!?!?

 不思議坂というのは私の勝手なネーミングです。本当は、弾正坂・お京坂と呼ばれています。本渡市から苓北町への農面道路がありますが、この坂はその途中にあります。苓北町へ入り、峠を超えた付近にあります。
 ここは、古戦場跡なのです。その昔、小西行長、加藤清正の連合軍が天草の五人衆を征伐した時、いわゆる天正の天草合戦で、加藤清正と木山弾正が一揆打ちを行った所として有名です。
 さて、不思議坂といわれる所以は、以下案内板等でご紹介します。





名勝 仏木坂

古くから志岐と本戸を結ぶ唯一の交通路は、本戸往還といい仏木坂を越えることから仏木坂越えといわれ県道本渡富岡線が開通するまでは、人馬の往来が盛んであった。
 天正17年(1589年)加藤清正が志岐城の志岐麟泉を攻めたとき、清正と麟泉の客将 木山弾正が一騎討ちをして清正が勝ち志岐城を開城させる端緒をつくったという由緒がある。



木山弾正無念坂

 ここから苓北方面へ100mでお京坂。そこで止まってギヤをニュートラルにするとあなたが思った方とは逆方向に車は静かに動き出すはずです。

仏木坂伝説

 豊臣秀吉が天下統一をして間もなく、天草は小西行長の支配下となった。行長は宇土城の普請を志岐麟泉ら天草の五人衆に命ずるが、彼らはこれに従わない。怒った行長は、ここ志岐城の麟泉を攻めるが、もろくも敗れて加藤清正に援軍を求める。
 これが世にいう天正の天草合戦である。この折のこと、乱戦の中、本戸城の客将木山弾正は、ひたすら清正を求めて、つき進み、ようやく巡り合って、ここ仏木坂での一騎打ちとなった。片や虎退治の勇将清正、対するは怪力無双の猛将弾正、組んず解れつの戦いは一刻に及ぶが、なかなか勝敗がつかない。あたりは、もはや黄昏れて視界もきかない。この時のこと駆けつけた彈正の家臣が「ご主君はいずれに…」と声をかけると、生来吃りの弾正は返事ができない。咄嗟に答えたのは、組み敷かれている清正である。「弾正は下に…」と。あわれ弾正は清正に馬乗りになっていながら家臣の槍で落命したという。
 坂道を降り切った車がひとりでにバックするのはこの弾正の無念の霊魂が呼び戻しているのではあるまいか。仏木坂に残る伝説である。

 本渡ロータリークラブ・西天草ロータリークラブ
 苓北町


弾正坂

 木山弾正惟久。もと肥後木山の赤井城々主。島津氏の侵攻をうけて落城。そのあと、縁つづきの天草伊豆守種元を頼って本戸城の客将となる。のち天正の天草合戦において、ここ仏木坂で加藤清正と一騎打ちを演ずるが、家臣の手にかかって無念の討死。
 また、その一子、横手の五郎は父親ゆずりの怪力無双の勇士であったが、清正を亡父の仇と狙い、また熊本築城の秘密を知るが故に城内の井戸にて謀殺されたと伝えられる。

お京坂
 
 お京の方。木山弾正の妻。仏木坂における夫弾正戦死のあと、清正、行長の連合軍は弾正の居城本戸城を包囲するが、その時、お京の方は夫の鎧、兜に身を固めて娘子軍三百余名と共に打って出る。しかし、梅の小枝に兜をとられて女と判明。あわれ雑兵の手にかかって落命。「花は咲けども、実はなるまじ」とは今に残る本渡市延慶寺「兜梅」の伝説である。