2010/08/01up


弘化の大一揆                  

  弘化四年(1847)、天草・島原の乱(寛永14年)から約200年後、第二の天草の乱ともいわれる百姓一揆、「弘化の大一揆」が起きた。
 一揆に加わった百姓たちは15,000人にも及んだという。



一揆の要因となった事象
 
    
1.天災が相次ぐ。
   2.人口増
   3.自給自足の生活から貨幣経済への移行。
   4.銀主の台頭による貧富の差の拡大。
   5.天草島の生産性の低さ。
   6.増税
   7.藩領に比べ、幕領は農民支配が緩やかであった



天災飢饉 


 松田唯雄著の「天草近代年譜」によると、安永に入った(1772年)ころより災害が相次ぐようになった。

1828年 文政11年 4.13〜14 大地震。高潮で各所の新田被害。
5.-  数日間の大雨、洪水。
7.2  大雨、洪水。
8.6  強雨。大風。
8.9  未曾有の大暴風雨襲来、田畑、家屋、漁船などに大被害。死者33名、田1,099町、畑235町、全壊家屋4,686軒、半壊1,415軒、牛馬死亡13頭など。
 未曾有の災害の為、増税の3カ年の猶予を申し立てるが、却下される。村々百姓不穏の兆しあり。


1829年 文政12年 5.24 大風。 
8.8   大風、豪雨。田損耗。その他被害。
秋    郡中不作。
     

1830年 天保元年 4.5  強風。出水。
6.14〜15 大雨、洪水。
7.2〜3  大雨、大風、洪水。
7.7〜8 大風雨。洪水。
7.10 大雷風。
7.14〜15 風雨、出水。
この頃 たびたび強風、豪雨の連続で気候不順、作物不熟。
 

1831年 天保2年 春  麦凶作。
5.28〜29 大雨、洪水。
6.1  強雨、出水。
7.8  豪雨。

1832年 天保3年 春 昨年の天候不順で、春作不作。
7.- 6.16より8.3迄48日間干天。
8.4 8.6迄雨降り通し。恵みの雨
9.9〜11 この日降り出した雨、10〜11日豪雨。大風。

1833年 天保4年 6.10 大雨、洪水。
7.-  虫害。
7.-  8月にかけて干ばつ。不作。

1834年 天保5年 1.-  米価ますます高騰。庶民困窮甚だしき。
6.8〜9 大雨洪水。
7.21〜8.10 49日間干天。
7.- 干ばつ、虫害被害多し。
8.11 恵みの大雨。

1835年 天保6年 4.21〜24 大雨、洪水。
5月下旬〜6月上旬 大雨洪水。
6.18 大風、強雨。
閏7.5 強風雨。
閏7.17〜21 大風。大雨。
 

1836年 天保7年 夏 気候不順。夏にして人々は冬着を着る。
7.7 大風、大雨。

1834年 天保8年 1.23 大雨、洪水。
2.- 早春より雨多く、麦不熟凶作。
2.- 諸穀類高値。
3.14 大雨、洪水。
3.24 大雨、洪水。
3.-  郡中糧食欠乏。
4.-  この月より5月にかけ、天候不順。度々風雨、雷。大霜、雹数度。
6.8  南風、豪雨。
6.-  郡中飢餓。御所浦、古江村により上島にわずかながら餓死人出る。
7.10 終日強雨。

1835年 天保9年 5.27 大風。
7.23 大風。大雨。雷。

1836年 天保10年 4.20 大雨、洪水。
5.28 大雨、洪水。

1837年 天保11年 5.17 大雨、洪水。
6.-  この月、数回大雨洪水。

1838年 天保12年 3.- この月より5月中旬にかけ、度々強雨。

1839年 天保13年 5.26  強雨、出水。
7.-   大干ばつ。雨乞い祈願各所で行われる。

1840年 天保14年 5.30  豪雨、出水。
8.-   大干ばつ。
9.1〜3 高潮。新田被害。

1841年 弘化元年 6.2 大風。
7月から8月 干ばつ。
8.29 大風。

1842年 弘化2年 5.20〜21 大風雨、出水。
6.3 暴風雨。

1843年 弘化3年 閏5.9  強雨、洪水。

1844年 弘化4年


人口増


  天草島の人口の動態

1658年 万治2年   16,000人。 乱時の人口に回復。
1691年 元禄4年   34,000人。 前回調査より今年までの平均年間人口増 ・ 545人。
1711年 正徳1年   52,785人。     〃                       939人。
1746年 延亨3年   74,657人。     〃                      625人。
1761年 宝暦11年   89,982人。     〃                     1,022人。
1795年 寛政7年  112,000人。     〃                     1,468人。 
1818年 文政1年  132,205人。     〃                       878人。
1831年 天保2年  141,592人。     〃                       723人。
1832年 天保3年  143,806人。     〃                     2,214人。
1838年 天保9年  142,782人。     〃                     △170人。
1860年 万延1年  155,000人。     〃                        555人。


 弘化一揆時(弘化4年・1847年)はこの狭く地力の悪い天草島に、14万4千人弱の人口がひしめいていた。
 天草の石高は、24,666石(天保9年)である。当時は、1人が1石を必要としたといわれる。25,000石ならば25,000人が妥当である。
 25,000石の内には田だけでなく、畑作物や屋敷地も含んでいる。更約5割の年貢が取られており、これからすると天草の適正人口は、多く見積もっても15,000人ぐらいであろうか。
 新田開発も盛んに行われたが、銀主などの手によるものであり、一般農民が恩恵にあずかることは少なかったのではなかろうか。
 参考: 人口増   人口増グラフ(PDF)



銀主の台頭

 銀主(ぎんし)は、江戸時代の中後期、貨幣経済の普及とともに台頭した豪商であり、高利貸資本家であり、大地主であった。その発生源は酒造業者であり、生活物資などのよろず商い業者であり、あるいは勤倹貯蓄の篤農家たちであった。
 天明、寛政年間(1780,90年代)には、すでに銀主二百数十軒が天草郡内の田畑の3分の2を分割所有する存在にまで成長した。
 天草一の豪商といわれた御領村の豪商石本家は、年収1万3千両、日雇い使用人1万人前後、百姓身分ながら、苗字帯刀御免、郡内の持ち高2,000石の大地主であった。
 ただし、銀主のすべてが「金持ちイコール悪」というのではなく、彼らの資本力で新田開発など貧しかった天草の経済発展に寄与した点も見逃せない。
 前述の石本家は、郡中村方、救荒の夫食籾や冥加金の献納など人間的にも奇特な行いが多かった。
 (天草海外発展史・北野典夫)


天草の農業生産性

 天草全島の生産高2万3千石余。
 耕地面積は水田2,491町歩。(文政10年・1827) (1町は約1ヘクタール)

 天草は「野山険阻にて土地悪しく、谷間迫間の地所がちにありこれあり、両毛作の田地少なく、その上一郡一円の離島にて川丈け短く水元(源)間近に御座候、わずかの旱にも渇水に及び、田地用水に不足つかまり百姓困窮の場所柄・・・。」(文化4年肥後国天草郡村々御手当等定免伺書」)


増税

 年貢は当初、検見取り方式であった。
 検見取りとは実際の収穫を基準に年貢を課す方式である。
 江戸時代の年貢は概ね五公五民といわれる。
 
銀主の主張
 
 ここで、銀主の主張にも耳を傾けてみよう。
 「元地主を突き詰め調査すれば、185年前の万治2年度の検地帳によれば、わずか3万人弱の地主に過ぎない。
 現在14万人の郡中11万人は、田畑山野を所有していないのは当たり前である。」
  天保14年 大庄屋庄屋取極桁書作成、これを役所へ提出。その要旨は、当時より100年前の延亨元年さかのぼり、転々移動する土地の所有権を全部還元せよ。という、願いに銀主側絶対反対の陳情より。