鬼の城公園 公園一帯は古くからの信仰の場であり、高さ3mの弘法大師の石像をはじめ、大蛇が巻いてできたといわれる地層のくぼみに寄進安置された百数十体の石仏群や、町内から集められた百数基のキリシタン墓碑群等がある。また新たに整備された鬼のテーマゾーンは、鬼の角をイメージしたシンボリックタワー「鬼の城展望台」をはじめ、ギリシャ神殿を思わせるような「鬼の回廊」、直径3.6mの巨大鬼面から水を吹き上げる「鬼の泉」、様々なイベントが可能な機能を持つ「鬼の広場」等、鬼瓦をモチーフに取り入れたユニークな施設で構成されている。 |
左 弘法大師像
右 モニュメント
鬼の城公園の由来 昔、この地には体長数丈にも及ぶ大蛇が棲んでいて、時に人畜に害を加え農作物を荒らしたりするので、里人達はこの山を「鬼の城」と称し危難を恐れて容易に立ち入らなかったという。いつの頃かこの地方を行脚中の高僧がこの噂を聞き、人々の難渋を救おうと山中に入り数日間高らかに経文を唱え、ついに大法力をもって大蛇を退散せしめと伝えられている。露出した岩肌には当時大蛇が巻いていた痕といわれる地層の窪みが、丘を取り巻くように遺っている。明治初期から近郷の人々により石仏数十体が、この窪みに寄進安置されて以来、鬼の城は一躍信仰の霊場となり、また北方の丘を「仏の城」と呼ぶようになった。 大正10年(1921)山崎大観という旅の僧が鬼の城の一隅に洞窟を堀、その奥に不動明王を刻み、ここに起居して托鉢修行に励んだという。大観師は弘法大師の石像の建立を発願、御領の石工等に依頼してやぐら山(浦園)の石切場から巨大な凝灰岩を切り出し、多くの信者の強力を得て2キロの悪路を21日要して鬼の城へ運んだ。石像は高さ約3m余下浦の石工大塚源作氏が全国行脚中の大師の姿を製作したものである。その後仏の城に牛馬の守護を祈願して馬頭観音が建立されている。 昭和10年(1935)には信者の浄財により、大師堂が竣工、御領の仏師永田松好氏の見事な大師の木像が安置され、近郷はもとより九州各地から参詣に訪れる人が多くなった。 昭和46年(1971)年五和町は、明治100年事業として、町内各地に散在するキリシタン墓碑百数基をこの地に移し、ここを「鬼の城キリシタン墓碑公園」とした。 春は桜、初夏は数千株の天草つつじが新緑に映え、秋は広大な蜜柑園が行楽客の目を楽しませてくれる。 |
鬼の城公園「鬼の伝説」 昔々、この地に鬼の頭が住んでおり、鬼たちを集めて寄り合いをしていました。その後、次第に村人とつき合うようになり、仲良く暮らしていました。 ところが、この地に人々をおそう恐い大蛇がやって来ました。ある時、お坊さんが立ち寄り、大蛇のことを知り、鬼達と一緒になって退治しました。その後、大師様への信仰が広がり、たくさんの石仏・大師像が建てられ、信仰の霊場として知られるようになりました。このように五和町の鬼は、やさしく、力もちで、たくましい鬼でありました。 遠い昔の鬼たちの世界が広がる鬼の城公園で、目いっぱい楽しんでみてはいかがでしょうか。山からこっそり鬼が出てきて、一緒に遊んでくれるかも……。 《・・・》 ここ鬼城は、古くから弘法大師ゆかりの霊場として、近隣はもとより、西海各地の人々によって、祀り崇められてまいりました。 江戸末期から明治にかけ、多く石仏が建立され、大正14年、山崎大観和尚の発願によって、台地上に立派な修業大師の立像が建立された事により、更に大師信仰の輪が広められて来ました。弘法大師は密教を唐に学び、日本に帰国して真言密教を確立され、真言宗の創設者として知られるお方です。しかも、仏教のみでなく儒教、道教、更には陰陽、法律、工芸、医業、音楽など幅広い学問を、庶民の中にまで広めて下さった実在のお方です。そのあかしが、今なお庶民の中に御大師様と慕い敬われている御姿ではないでしょうか。 新たな世紀を迎えるに当り、平成のマンダラ(石仏群)を建立し、世界平和と地域の発展、ひいては家内安全請願成就を祈願し、心のよりどころとしてはどうかという、諸覧諸氏のご意見があり、地元有志により、その準備をすすめているところでございます。ご要望もありましたので、ご参考までに二体の仏像見本を彫刻いたしましたので、是非ご賛同いただきたく、おすすめする次第でございます。合掌 |
《註》原文を損なわない程度に修正しています。