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名勝・龍ヶ岳  上天草市竜ヶ岳町
                                      龍ヶ岳山歩記はこちらへ


 







龍ヶ岳

 観海アルプスの主峰である龍ヶ岳は、春は桜、秋は紅葉と四季折々の美しい装いを見せる国指定の名勝である。標高
470メートルの頂上部の広さは県下一を誇り、砥岐の里と呼ばれる公園に整備されている。園内にある展望台からは、東に不知火海、南に霧島、北に阿蘇、西に雲仙が遠望できる。砥岐の里には展望所以外にバンガローやキャンプ場が設けられている。
 また平成元年度より、
天草星の里の創造をねらいとする「ミューイ」天文台を建設した。これは町の自然と文化の里づくりのスローガンを象徴する施設として、研究や青少年の教育利用が実現されるよう計画されている。










 野口雨情碑  砥岐の里モニュメント



竜ヶ岳

 天草上島の南端に位置するこの山は、標高
470mで、第三紀(74万年〜100万年前)の硬い礫砂岩からなり、山頂付近は緩斜面が開け、その東部および南部は高さ50mの断崖になっている。その崖の向こうには、樋島、御所浦、長島などの島々を望むことができる。また西側には倉岳と棚底湾、北側には老岳の山々を眺望できる展望地である。
 山頂から少し下ったところに

阿蘇や雲仙霧島までも竜ヶ岳からひとながめ


という野口雨情の碑が建っている。










砥岐の由来
 

 
 徳川三代将軍家光は、寛永18年(1641)天草全島を直轄天領として十組に分け、1町86ヶ村を置き、各組に大庄屋、村々に庄屋、年寄、百姓代を行政機関として設けた。
 この地は砥岐組と名づけられ、これに属した村の姫浦、ニ間戸、樋島、高戸、大道、御所浦、浦、棚底、宮田の9ヶ村は当初大庄屋棚底村七右衛門、1661年以降大庄屋樋島村藤田家が統轄するところとなった。
 当時の人々の間では、この砥岐組を上・下に区分し、姫戸町、竜ヶ岳町を上砥岐組、御所浦町、倉岳町を下砥岐組と称したが、人々の気風こそ違え自然的条件から来る、生活状況は全く同じで、幕府が定めた定浦で一定を限り漁民の資格が与えられ、漁業に従事したり、傾斜・尺地で農業に従したりしていた。当時の年貢は高戸村137石5斗6升、大道村93石2斗6升、樋島村72石1斗6升で地形条件に恵まれないため、過重な貢租であった。
 このころ諸国でも幕府絶対権力のもとに人々は重い貢租と厳しい身分制度の下で苦しい生活をよぎなくされていた。以後15代徳川慶喜までの激しい砥岐組の変遷は、内憂外患こもごも、228年間の歴史を刻んだのである。その後明治、大正、昭和と時は流れ、334年を経たが、この歴史をいろどる光と影、明暗消長を通じていえることは、われわれの先人達が郷土に対する聖愛を惜みなく捧げ、よく艱難欠乏に耐えて郷土興隆思想のもとに努力精進した尊くも厳粛な事実である。
ここにふる里の搭を建立するにあたり、町のおこりとも云うべき砥岐組にちなみ、砥岐里と銘し、良き伝統とそれにつちかわれた豊かな人間性が正しく伝承され郷土への連帯の意識を強め、さらに永久のいや栄を祈念するものである。

    昭和50年(1975)10月10日
      竜ヶ岳町長
             辻本市之助