天草崩れ   = 宗門心得違い事件 =


 文化七年十月五日(1810年11月1日)、伊能忠敬の測量隊は、、崎津村庄屋吉田宇治之助の屋敷に本陣を取った。この庄屋屋敷跡に現在、崎津天主堂が建っている。
 この崎津を含む、隣村の今富村、大江村等で、伊能忠敬の天草測量の7年前、天草支配層を震撼させる衝撃の事件が起きた。
 後に「宗門心得違い」あるいは「天草崩れ」と呼ばれる事件である。
 天草島原一揆(天草島原の乱・寛政十四年~十五年)から165年後の享和三年(1803)のことであった。事件化したのは、翌年。

 享和三年、今富村(現在の天草市河浦町今富)付近に密かに、邪宗門を信じる者があるとの風聞が流れた。その一つの怪しきものとして、牛殺しが行われたというものである。当時、牛馬は農耕にとって欠くべからざるものであり、かつ仏教の精神によって、牛馬を殺すことは法度であった。
 牛を殺すのは、キリスト信徒が、祝日に牛肉を神前に供え、これを食するという習わしがあったためである。
 そこで今富村庄屋上田友三郎に、内情探査をさせ、同時に志岐村国照寺の大成もまた陣屋の内命を受け同地に赴いて、共に家々の臨検説法を行なった。

 邪宗門とは勿論キリスト教である。幕府は、天草島原の乱後、最大施策として、キリスト教禁止を掲げ、乱から165年経った当時でも、度々の禁止お触れや、廻村を行い宗門改めと称する絵踏みなど、その取締に余念がなかった。それでも、隠れ信者が潜んでいたということで、当時の為政者の驚きは大変なものであった。
  当時の天草は、島原藩預かりであった。この対策如何では、藩の取り潰しにまで発展する恐れすらあったのである。
 今富村庄屋・上田友三郎は、上田宜珍の実弟である。もともと今富村の庄屋は、大崎氏であった。その庄屋吉五郎が若くして亡くなり、その息は幼年(3歳)であったことから、高浜村庄屋であった上田宜珍が、代官所の命で兼帯庄屋となったが、間もなくして、宜珍の弟で養子となっていた、友三郎が専任の今富村庄屋となった。
 この邪宗門対策に、上田宜珍、友三郎を送り込んだとの説もある。殊に宜珍は、代官所でも特に信頼を置いている存在であったためである。

 文化元年二月二日~二月二十六日 上田庄屋は、探索を進め、二日には、信者嫌疑者として25名、牛殺し嫌疑者として9名を挙げたのに続き、二十六日には、さらに26名を富岡役所へ報告する。
 
 探索を続けていくうちに、今富村のみならず、隣村の大江村、崎津村でも信者がいることを発覚した。これまで内々に進めていた探索が表ざたとなる。
 そして島原藩はこれらの嫌疑者を検挙することにし、吟味奉行が出役する。さらに、吟味奉行は、山方役や大庄屋を陣屋に招集し、取り調べを本格化する。

 更に、宜珍の高浜村にまで、信者がいることが分かった。
 現在でいう被疑者・容疑者を富岡陣屋まで出頭させ、取り調べを行った結果、ほぼ全容が解明する。
 この事案に対して、大きな事件に発展することを恐れた当局側は、検挙し罰則を与えるということでなく、誤りを糺すという方針をもって臨んだことは幸いであった。
 それは、取り調べに当たって、拷問を与えたりするのではなく、密かに宗教的異物を持っている者は、それを夜半こっそりと、指定したところへ投げ込めさせたり、諄々とあなたたちは間違った教えを信じていると説諭したことである。
 この方策を立て、当局にそれを実行させたのはやはり宜珍だと言われている。その結果、心得違いということで改宗させて事なきを得た。
 最終的に心得違いの者は5205人にも及んだ。村ごとの割合は表の通り。
 これを見ると、いかに多くの人々が、心得違いをしていたということが分かる。

 実に驚くべき数字である。よくもこれだけの割合で隠れ信者が居たにも関わらず、これまでよくも表ざたにならなかったものだ。
 さて、これをキリシタンと見なさず、心得違いとしたのには、余りにも多くの村人が関わっていたこともあったろうが、どう調べても、純粋なキリスト教徒ではなかったということである。
 それは、天草から指導者の司祭が居なくなったため、キリスト教を正しく伝えることが出来なくなったためである。したがって、当初は、正規なキリシタンであったが、親から子へ子から孫へと何世代も経る間に、大きく変容した。ただ先祖から伝わったため、守っていかねばならないとして、受け継がれてきたが、それは意味を持たないものとなり、何時しか土俗的宗教となってしまった。
 それは、彼らが唱えていたオラショや仏教的なものと合体したような具物等が全くキリスト教からは逸脱していることからも分かる。ただ、守られていたのは、絶対隠れて信仰しなければならないということだけであった。そのため、取り締まる方としても、キリシタンと認定できなかったためでもあろう。
 もっとも、取り締まる側自体も、キリスト教の何たるかもわからなかったかもしれないが。
 この研究を続けている、浜崎献作氏は、「隠れキリシタンではなく、伝承キリシタンと呼ぶべき」と言う。
 また、この隠れ信者発見で、隠れ・伝承が無くなったとはいえず、なんと昭和初期まで続いたというから、宗教の力はすごいものがある。また、伝承と言える理由の一つとして、明治以降に真のキリスト教が再度入ってきたが、この隠れ信者たちは、それを拒んだという。
 それは自分たちが信じ守り通してきた宗教と、明治になって入ってきたカトリックがあまりにもちがっていたためだ。

 長くなるが折角なので、近代年譜を借りて、その経過を見てみよう。
享和三年(1803)
 十月二十四日
   郡中西目筋今富村付近に、内々邪宗門を信じる者があるとの風聞があり、今富村庄屋上田友三郎定温に内情探索に当たらせ、同時に志岐村国照寺大成もまた、陣屋の内命を請け同地に赴き、共に協力して家々の臨検説法等に尽力する。
 十月二十六日
   この日、今富村大河内で、牛を殺す事件が二つも発生する。
   庄屋上田友三郎がそれを探知し、これを手づるに信者であるとの確証を得んものと腐心する。
   信徒等は、祝日に牛肉を神前へ供え、自身もまた食する風習があることによる。
文化元年(1804)
 二月二日
   邪宗徒内定掛り今富村庄屋上田友三郎、同村組頭47名を呼び出し、宗門吟味に心がけるよう命じ、信者の主立つ者として、25名、また牛殺しの嫌疑者として9名を挙げる。
 ニ月十七日
   上田友三郎、富岡陣屋に出頭し、逐一内情を報告したのち、直ぐに取って返し、なお探索を実行する。
 二月二十日
   上田友三郎、この日が信者の祭日になることを探知し、さらに嫌疑者突き止めに腐心する。
 二月二六日
   上田友三郎、嫌疑者の主なる者26名を富岡役所に報告する。

文化二年(1805)
 二月二十八日
   大江、﨑津、今富の3カ村に多数のキリシタン信者がいることが確かめられ、遂に表ざたとなる。
 二月二十九日
   島原藩では、公事方勘定奉行松平兵庫守下知のもと、いよいよこれの検挙にかかることとなる。
   吟味奉行川鍋次郎左衛門が出役し、この日富岡に着船、直ちに陣屋に入る。
 二月三十日
   この夜、吟味奉行川鍋次郎左衛門、富岡付山方役江間新五右衛門を始め、御領組大庄屋長岡五郎左衛門他10名の大庄屋を陣屋に集め、取調べ方法について種々打ち合わせを行い、吟味方掛り役を決定し指令する。
  一、地役人江間新五右衛門、志岐組大庄屋平井為五郎を大江に遣わし、取調べは同村江月院の鑑司、万機の二人が当る。
  一、久玉組大庄屋中原新吾、福連木村庄屋尾上文平を﨑津に遣わし、大江村江月院徳充、魯道の二僧をこれに加える。
  一、御領組大庄屋長岡五郎左衛門、高浜村庄屋上田源作を今富村に遣わし、大江村江月院隠居梅雲、今富村庵主格堂に補佐させる。
 三月十日
   大江、崎津、今富3カ村へ差し向けられた掛り役がこの日富岡を発足する。
 三月十一日
   懸かり役人は各々村民を召喚して取調べに着手する。
   調べに当っては、懇々理解するよう説得するが、あからさまに申し立てるものもなく、要領をえずじまい。
 三月二十二日
   大江、﨑津、今富へ出役の掛り役人、村民を呼び集めて更に道理を説き、吟味奉行よりの口達文をも公開して、断じて後難の憂いがないことを保証する。
   村中申し合わせの一定の場所(大江・八幡宮、﨑津・氏神、今富・庵)に各々夜中に参拝して、秘かに御像法具の類をこれに投げ入れさせる。
   これに金仏、土人形、丸鏡等数点入れられる。
 三月二十四日
   究明が手緩いと吟味奉行川鍋次郎左衛門より督励の達書が到達する。
   掛り役人も取り調べの進捗に懸命の努力を続ける。
 四月二十日
   この月中旬までにおおよそ取調べも落ち着き、掛り役人はいずれもこの日富岡に引き上げ、それぞれ役所に報告する。
 四月--
   この月末より5月末にかけて、次の多数の信徒等を一々富岡役所へ召喚し、再吟味を行い口書を取る。

吟味方

 首座・川鍋次郎左衛門、列座・島原役人原龍左衛門、物書き井上伊左衛門、立会・役所詰谷川岩右衛門、渡辺種左衛門、内田時兵衛。
 非吟味者4月晦日、嘉助他1名数回尋問。
  5月3日吉郎右衛門他5名。
  4日忠左衛門他2名。
  6日恒兵衛他11名。
  7日源蔵他14名。
  8日角蔵他7名及び松右衛門他7名。
  9日五郎左衛門他10名。
  11日忠助他12名。
  12日長蔵他15名。
  14日浅吉他14名。
  16日甚兵衛他3名。
  17日佐助他7名。
  19日長右衛門他14名。
  20日清吉他14名。
  25日熊蔵他12名。
  26日又助他10名。
  以上合計262名。

 五月--
   取調べの進捗につれ、高浜村白木河内にも同様の者がいることが発覚する。
 六月一日
   役所より、地役人江間新五右衛門、大庄屋平井為五郎を高浜村に差し向け、大江村江月院鑑司、万機の二僧ともどもこれの究明に着手する。
 六月--
   高浜村白木河内の者ども、前の例もあり、いずれも有体に申し出たことにより、時を移さず富岡に召喚し、吟味を重ねた結果、4カ村を合わせて、実に心得違いの総数は5千人余の多きに達する。
  身柄は一切郷村より他出を差し止め置いて、一件逐一幕府へ進達し、その指令を仰ぐ。
 文化三年九月--
   前年発覚した大江、崎津、今富、高浜4カ村の邪宗門一件に付き、幕府より裁断有り。関係者全員にあらためて踏み絵を行い、各人ごとに調印改心を誓わせることにより、事済みとなる。
   島原表より、奉行天野藤次、谷川岩右衛門、清宮與兵衛、小野田敬右衛門、渡辺敬助、谷川保助等21人出役して、その任に当たる。

 心得違い者数
 村 名  隠れ信徒  総村人高  比 率
 信徒/村人
      (%)
 人数 戸数   人数  戸数
 大江村  2,132  441  3,143  569  67.8
 崎津村  1,710  不明  2,401 209  71.2
 今富村  1,047  不明  1,836  159  57.0
 高浜村  316  88  3,320  579  09.5
 合 計  5,205    10,700  1,513  48.6
 資料・「宗門心得違い事件」より 比率は筆者計算
    崎津村の人口は3,143人説もある



 ◇ 参考資料
  『天草かくれキリシタン 宗門心得違い始末』
    平田正範遺稿 濱崎栄三 濱崎献作編集発行 
  『天草近代年譜』
   他