徳川幕府による禁教令は激しくなるばかり 天草から遂に神父が追放される 神父がいなくなった天草でアダム荒川は修道士として 信者の世話をしたりして人々を励ました そのアダムに執拗に棄教を迫る役人 それでもアダム荒川は信仰を守り通す なだめても脅しても拷問にかけても 信仰をかたくなに守るアダムに遂に死の時が訪れる 慶長十九年六月五日(1614年7月11日) 刑場に引き出されたアダムは首を討たれ遺骸は海に捨てられた そして約四百年後の2007年、遅すぎたが アダム荒川はペドロ岐部と187人の中の一人として 列福者に叙せられる 天草では唯一の列福者だ アダムの碑は殉教地(苓北富岡)と本渡の殉教公園に建っている |
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アダム荒川の碑 天草市本渡 本渡殉教公園 |
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天草最初の殉教者 アダム荒川 アダム荒川は、天文21年(1552)頃、長崎県島原半島の有馬生まれと言われ、1590年代には志岐の教会に伝導士又は看坊として勤めていた。 慶長19年(1614)キリシタン禁教令により、志岐教会のガルシア・ガルセス神父が国外に追放されるとき、神父は、アダム荒川に志岐の教会の世話を頼み天草を去った。 アダムは信者の世話に力をそそぎ、幼児に洗礼を授けたり、病人を見舞ったり、人々を励ましていた。やがて、迫害が厳しくなり、アダムは役人に捕らえられキリスト信仰の棄教を命じられる。しかし、さまざまな拷問を受けながらも信仰を守り続けた。このため遂に慶長19年6月5日志岐の刑場で処刑された。 |
「アダム荒川記念広場の碑」 苓北町富岡 富岡城址公園 | |
アダム荒川は1552年頃キリシタン大名有馬晴信の領地であった、長崎県島原半島の荒川(現吉川)に生れました。 若い頃、ある過ちのため主君から処刑を命じられましたが、有馬のイエズス会士モーラ神父の取りなしで助けられました。それから、アダム荒川はその生涯を教会に捧げました。 1590年頃、志岐の教会に派遣され、看坊(神父の助手)として教会を守っていました。ところが、1614年徳川幕府による宣教師追放令により、唐津と天草の領主であった寺澤志摩守は、富岡城番代の川村四郎左衛門に命じて、志岐の教会にいたガルシヤ・ガルセス神父を長崎に連行しました。その時、神父はアダム荒川に教会と信者の世話を頼んでいきました。 番代の川村は、領主の「天草領内のキリシタン全てに信仰を捨てさせるように」という厳命にもかかわらず、その命令が完全に実行できないのは、アダム荒川が活動しているからだと判断し、棄教を勧めました。しかし、アダム荒川は、これに応じなかったので、裸にされ縛られて屋外にさらされました。それでも応じなかったので、狭い部屋に監禁されましたが、信仰を守り続けました。 そしてついに、寺沢志摩守はアダム荒川が信仰を捨てないのであれば、処刑するように命じ、1614年6月5日城山の裏道を下ったところで処刑されました。 時は流れて平成19年6月1日、ローマ法王ベネディクト十六世が、キリスト教迫害で処刑されたアダム荒川を含む日本人殉教者188人を栄誉ある「福者」に列することを正式に承認されました。日本人が福者に列せられるのは、今回が初めての事であり、天草ではアダム荒川が唯一の福者となりました。翌年の平成20年11月24日、日本初の列福式が長崎で行われました。 「福者」カトリック教会において死後の徳と聖性を認められた信者に与えられる称号 「列福」聖人に次ぐ福者の地位に上げられる事 |
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アダム荒川殉教の地(推定地) 苓北町富岡 かつては富岡城の北側にあったが、現在は城内に移転されている。(上記)したがってこの碑は以前のもの |
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アダム荒川殉教の地(推定地) アダム荒川は1552年頃の生まれで、キリシタン大名有馬晴信の領地であった島原半島南有馬の荒川(現吉川)の出身です。 彼が天草志岐へ来たのは、志岐にセミナリオ(神学校)ができた1591年頃で、彼は教会で看坊(神父の助手)として教会を守っていました。 ところが1614年徳川家康のキリシタン禁令が下ると、富岡城代川村四郎左衛門は、天草富岡の領主である肥前唐津の城主寺澤広高の命令に従い、上津浦南蛮時のマルコス・フェラロ神父と志岐教会のガルシア・ガルセス神父を追放しました。 ガルシア・ガルセス神父に代わり教会を守っていたアダム荒川は、3ヶ月にもわたる迫害にもめげず、信仰を守りとおす態度をとり続けたため、とうとう斬首の刑に処されることとなりました。 刑は、富岡城下の海岸で実行されたとの、当時の神父たちが書き残した記録から、この附近で処刑されたと推測されます。 |
アダム荒川処刑の様子 レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』 吉田小五郎訳・岩波文庫 上巻 p344 には、アダム荒川について次のように記されています。 志岐・神津浦の諸島、並に之に属する諸島は、元の長崎奉行志摩殿の領地であった。この大名の本城及び屋形は、肥前の唐津であった。ガルシア・ガルセス師が志岐を去るや、家老四郎右衛門は天主堂を破却させた。 袋の村には荒川という善良なキリシタンがいた。彼はもと、天主堂の「看房」で、キリシタンを助け、えい児に洗礼を授け、病人を見舞い、死者を埋葬するの役を宣教師から委されていた。彼は四郎右衛門から厳しい拷問を受けた。 四郎右衛門は、元は宗教に対して好意を示し、同情を寄せていたのであったが、当時公方様に奴隷の如く従わなければならなかった。 アダムは、裸にされて引廻され、次いで縛られて二本の柱の間に吊るされた。彼は、この最後の拷間を枝の主日(三月二十日)から聖土曜日までずっとよく耐えた。彼は、夜の寒さで死ぬことを心配され、屋内に入れられた。 要するに、キリンタンが尊敬する殉教者にすることを避けたのであった。なお、殉教させるというこうした名誉が、異教徒の怒りを最も酷く刺激したことは、既述の通りである。 幾歳であったか、支那人でマリヤというアダムの妻は、遊廓に連れて行かれ、恐怖の余り棄教を約束した。アダムは、彼女に後悔させた。結局アダムは、囚徒として一キリシタンの家に預けられ、犠牲の日まで、六十日間そこにいた。彼はこの間ずっと将来の殉教に適するような、聖なる修業をしていた。彼は、只管祈祷三昧、その余の時間は、兄弟たちに教えを説いたり、勧めたりしていた。彼は「コンテンプス・ムンデ」を貪るように読んだ。 奉行は、彼に足の指を切るぞ、それも全部一度ではない。一本づゝ、どの傷も癒るまで痛み通し、だんだん痛みを増すのだぞと言って威した。アダムは、自分は何でも耐える覚悟は出来ているし、又自分が天主様を愛し、自身の過の贖として、耐える力を授け給わんことを望むと言った。この答を述べ終ると、アダムは、心氣一転、一層完全になったように自ら感じ、真に天の悦びによって慰められた。彼は、両手の中に、十字架を持っている聖母の幻影を見たが、之は彼にとって殉教の前兆のように思われた。 果たして志摩殿の家老たちは、領主に誰一人死刑にしてはならぬ、と抵抗したが、改悛の見込みのない反徒を片づけるように、志岐の奉行に依頼した。 アダムは刑場に引かれるために、まず城内に幽閉された。翌日、即ち六月五日、一番鶏の声を聞いて、アダムは刑場に引かれて行った。夜はほの暗く、道は険しかった。然し聖なる老翁は、鹿の如く跳ね返り、しかも一度も躓かなかった。同所に着くや、彼は跪いて暫く祈った。間もなく斬手は剣をとって、先ず彼の肩に切りつけた。首を落とすのに更に二撃を要した。アダムの遺骸は、網に入れて大きな石を結びつけられ、海中に投げ込まれた。キリシタン達は、辛うじて血の染んだ土を取ることが出来た。 アダムは時に六十歳であった。 〔註〕 @ 原文は旧字体及び旧かな使いですが、読みやすくするため、努めて現代文標記に改めた。 また、本文では改行はないが、読みやすくするため改行をした。 A ※1 神津浦は上津浦、つまり上天草島の意だと思われる。 B ※2 志摩殿 寺沢志摩守廣高 C ※3 四郎右衛門 本文では、シロエモンと表記され四郎右衛門とルビがうたれている。富岡番代川村四郎左衛門のこと。 D ※4 袋 本文では、(肥後郡葦北郡水俣村の中)と説明されているが、富岡は袋浦と呼ばれていたことから、富岡のこと。 E ※5 奉行 番代のこと。 なお、アダム荒川の殉教については、北野典夫著『天草キリシタン史』葦書房 p82 に詳しく書かれている。 |