石屋辰右衛門 祇園橋の棟梁
町山口川へ壊れない橋を架けたい それは石橋しかない 村人の篤い想いを願いを 下浦石工元祖 松室五郎左衛門の技を引く継ぐ 辰右衛門は一大決心をして引き受けた 前代未聞の大工事 村人にとっても前代未聞の大事業 失敗は許されない 叡智をしぼり造る石橋はがっちりした岩盤に目を付け桁梁橋に決定す 下浦石工 村人総意は困難を克服し実を結び 遂に見事な石橋が完成する 架橋に命を懸けた辰右衛門 完成の喜びを見届けて亡くなるが 百八十年後も石橋が健在と流石の辰右衛門も予想しただろうか 石橋は、祇園社の前に架けられたことから いつしか祇園橋と呼ばれるようになった その歴史的価値は後世 国の重要文化財となる 我々はいつまでも辰右衛門の功績を讃え 祇園石橋を見守り護って行こう |
石工といえば、県内に留まらず、東京や鹿児島、長崎などに石橋(眼鏡橋)を建設した八代東陽の〝種山石工〟が有名である。 だが、我が天草にも、それに劣らない石工集団があった。 下浦石工である。 天草各地に残されているほとんどの鳥居などには、その下浦石工の名が刻まれている。 さて、ここで紹介する「石屋辰右衛門」は、下浦石工の中でも特に有名な存在である。 石屋辰右衛門を現代において有名にしたのは、国重要文化財の本渡町山口川に架かる〝祇園橋〟建設した棟梁であることによる。 そこで、石屋辰右衛門について、以下述べてみたい。 といっても、辰右衛門が生存していたのは、今から180年も前の事であり、いくら偉業を為したとはいえ、史料は全くと言っていいほど残されていない。 その乏しい史料を基に、さらに現地取材して、辰右衛門を紹介しているのが、近藤鉄男氏である。その近藤氏が著した『天草四郎の乱』に収載されている、「石工の歴史と文化」「祇園橋建立の辰右衛門の墓」の2篇を基に、簡潔に記してみたい。 さらに、石工については『下浦石工物語』 金子久明編も参考にした。 下浦石工の成り立ちから始めたいが、下浦石工の元祖は、〝松室五郎左衛門〟であるが、この石室五郎左衛門については、別記する。 辰右衛門については、全くと言っていいほど不明であったようだが、近藤氏が現地調査をした結果、辰右衛門は松岡家の先祖というのが分かった。 その松岡家には、辰右衛門の白木の位牌があり、その位牌には〝清譽龍秀信士・辰右衛門・天保四年巳六月二日」と記されている。 祇園橋の竣工が天保三年十一月なので、祇園橋完成の一年後に亡くなっている。 また同じ位牌に並列して、〝冬覚妙仙信女・天保十三年十二月二十六日〟と記されている。 これは辰右衛門とその奥さんのことに違いない。 また、栖本の円性寺の過去帳や松岡家の墓碑にも刻まれている。 調査の結果分かったことは、辰右衛門自身は、祇園橋の架橋記念碑に〝石屋辰右衛門〟と刻まれているように、苗字を有していなかったが、以代目の時に、松岡姓を名乗っていることが分かった。 辰右衛門の墓 辰右衛門の墓は、下浦町石場共同墓地にある。 この墓地には、石室五郎左衛門の墓もある。 辰右衛門の墓は、普通の墓石と違って、高さ約60㎝の座像石佛である。蓮の花を左手で方にかざしたボーズをとっている。 同じ石佛が、古いのと新しいのがある。ただ、この石佛はかつて台座があり、その台座には、松岡家の現墓を作る際に、埋め込んでしまったという。その台座には、辰右衛門の戒名などが彫り込まれていたという。残念なことだ。 |
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参考資料 『天草四郎の乱』 著者・発行者 近藤鉄男 「潮騒」 平成10年 天草文化協会 (内容は上誌と同じ) 『下浦石工物語』 著者・発行者 金子久明 『ふるさと下浦 石工、ぽんかんの里』 下浦ふるさと文化懇話会 『祇園橋 歴史と魅力 Q&A』 編者・発行者 山下義広 |