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絹野淡路信尚

天草筒を作った絹野淡路之輔信尚の墓  天草市五和町手野


 《現地案内板》

 鉄砲鍛冶
 
 絹野淡路輔信尚之墓


 絹野淡路輔信尚は、もと広島の住人で、種子島において火縄銃の製法を学び、唐津藩に仕えた後、天草の上野原に鍛冶場を開いたとされる。一説では、天草・島原の乱の際、富岡城が落ちなかったのは信尚の作った「天草筒」の威力によるものだったともいわれている。
 [五和町まちづくり協議会」


 これ迄の当ページで、絹野淡路信尚が作った鉄砲は、一揆勢のために使われたと、誤解していたが、寺沢のために使ったことが分かった。
 案内板のように、絹野が作った鉄砲が、城が落ちなかった一つの理由としても、何丁の鉄砲が使われたのか判然としない。
 墓石によると、没年月日が寛永十五年戌寅年三月十日≠ニなっており、これは一揆終結(寛永十五年二月二十八日)のまもなくの事であった。


 『四郎乱物語』による絹野淡路信尚

 さてもこの度は城中よりきっても出でず、太刀打ちもせず、小勢を以て鉄砲すくめに大敵を打ち退けしは、前の志摩守殿寺沢筒と言う鉄砲数丁籠置き給いしに依ってのことなり。
その由来は先年志摩守殿の子息と島津薩摩守殿息女と縁辺の約束在りし時、種子島より上手の鉄砲鍛冶桐野淡路と言いけるを志摩守殿に召抱えられ、はり出したる筒なり。
その後志摩守殿より松浦肥前守殿へ遣わされ、かの家に奉公し、牢人して後天草に渡り二江村にて死にけり。松浦筒又天草筒と言いしとなり。
この作りの筒は上様にも志摩守殿より献上ありて、名の高かりし鉄砲なり。

更に、絹野淡路の子吉兵衛について、記しているが長文になるが略す。
 概略は、富岡城を落とせなかった、一揆勢は口の津へ移動したが、四郎はまだ天草に居た。
 そこで、吉兵衛は、四郎を討ち果たさんとしたが、討つことはできなかった。そこで吉兵衛は富岡城に入ったが、肝心な時に籠城をしなかったので、四郎勢の仲間と疑った城勢により、裸にして調べられたところ、巾着にキリシタンの数珠が入っていた。この巾着は吉兵衛の老母が、もし四郎勢に捕まった時のために持たせたものであった。しかし、これを信じなかった城勢により、海に沈められて殺されてしまった。というおまけ話も。
 苓北町発行の『寺沢藩士による天草一揆書上』には、十一月二十日 ・間者桐野を捕え成敗する。(並河聞書)とある。
 なお、『四郎乱物語』では、桐野としているが、絹野の事として間違いないだろう