天草筒を作った絹野淡路之輔信尚の墓 天草市五和町井手
天草・島原の乱で、農民主体の一揆勢がプロ集団である武士団、しかも12万人に及ぶ勢力に、かくも対抗できたのは、鉄砲を所持していたからだろう。
もし、一揆勢に鉄砲がなかったら、簡単に鎮圧されたであろうことは、想像に難くない。
それでは、一揆軍は鉄砲はどれくらい所持していたのだろうか。
諸種の資料があるが、ある資料によると530挺があったとされている。
これによって、幕軍死傷者8千余人(死者1100余人)に及んだ。
その、鉄砲、天草筒を作ったのが、この絹野信尚といわれている。
没年は、寛永十五戌寅年三月十日と刻んである。
寛永15年といえば、原城が落城した年である。
原城落城 寛永15年(1638)2月28日
五和町指定文化財
絹野信尚は種子島で鉄砲づくりを学びこの地で「天草筒」を作った。
天草島原の乱に天草筒がその威力を発揮したと伝えられる。
五和町教育委員会