索引へ | 2010/08/07更新 |
三宅藤兵衛 の墓 天草市本渡町広瀬
その頃(天草島原の乱当時)、天草は佐賀唐津藩寺沢氏の領地であった。関ケ原の戦功として家康から拝領された。 三宅藤兵衛は、乱当時の天草番代であった。番代とは、唐津本藩の筆頭家老級のもので、兵事治安関係の長官的な役割を持っていたという。 三宅藤兵衛は、明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係にある。 細川ガラシャの甥に当たり、ガラシャに育てられたという。 石高は3000石(3500石の説あり)、その知行地は佐伊津村、広瀬村、下河内村、本村であった。 藤兵衛は、元和元年(1621)、七代目の天草番代に就任した。 |
以下、 「島原の乱 助野健太郎著」 より三宅籐兵衛に関する部分を要約して紹介する。 |
キリシタンを弾圧 (唐津の本藩へキリシタン弾圧のため帰藩した籐兵衛は一年間滞留したのち)翌寛永六年、富岡に帰任した籐兵衛の形相はまるで変わっていた。 血に飢えた悪鬼の如く、キリシタンとみれば容赦なく捕え、拷問にかけた。・・・・・・・ 弾圧の手口としては、最初簡単な言葉と威嚇で、家長たちを攻撃した。 それでも、転ばぬ(棄教)ものは、次に婦女子が監禁された。その数213人にも及んだ。 その婦女子に食事を運ぶのは夫の役目であった。食事の量は勿論わずかしか与えることは許されなかった。 それでも、転ばぬ者には、夫の目の前で、妻や子供を拷問した。 また、老人たちは、首に大石を付けて海に沈めたりされた。 天草の乱緒戦であえなく討ち死に 天草の一揆勢は、大矢野島から上津浦へ進出して、下島を勢力下に収めつつあった。 籐兵衛は、天草の中心本渡が危険に瀕するのを見てたまらず、唐津の援兵を待ち切れず、自ら城を出て、本渡まで兵を進めた。 やがて、唐津から到着した援軍もふくめ、勢力は1500人。 一方の一揆勢は、5000人。 まず、島子で闘いの火ぶたは切られた。 島子の戦いでは、一揆勢が圧倒的勝利を収め、藩兵は三宅籐兵衛が指揮する本渡の陣に迫った。 本渡でも、一揆勢の猛攻は止まらず、さしものプロ集団の唐津軍も、押されるばかりか、一部では逃げ出す一隊もあった。 今やこれまでと決めた籐兵衛はやにわに単騎敵中に突入して勇戦奮闘したが、遂に深傷を負い、終に割腹して果てた。 |
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三宅籐兵衛は慈悲の番代であった 三宅籐兵衛は、悪鬼のごとくキリシタンを弾圧したという説もあるが、この説に反論を唱える小説がこのたび発行された。「天草の乱秘聞-富岡城に立つ虹」 村上史郎著 熊日出版 だ。 この本は、三宅籐兵衛を主人公に、天草島原の乱の初戦となる、天草での闘いを描いた小説だ。 氏は、あとがきでこの小説を書こうと思い立った動機を「三宅籐兵衛という男、そのような悪逆非道の人物と単純にいえないばかりか、むしろ逆に、領民への深い慈悲の心を持ち、キリシタンにも相応の理解を示し得る奥行き深い人物であったに違いない、というのが、本書の執筆を思い立った時の私の直感であった。」と書いておられる。 先の助野氏の説と村上氏の説は、両極端だが、どちらが本当かを考えながらこの小説を読むのもいいだろう。 また、司馬遼太郎は、「街道をゆく-島原・天草の諸道」で、「富岡城代三宅籐兵衛がどういう人物であったかは、よくわからない。しかし、記録や伝承に散見する松倉氏の家老たちのような印象の人物ではなかったように思われる。」と書いている。 |