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宮田賢育(堅毓・けんいく

   宮田堅毓先生の墓

  天草市天草町高浜 

 現地案内板より

宮田堅毓先生は、高浜村庄屋上田家六代伝五右衛門の要請を受け、宇土郡硴の江村(現下益城郡富合町)より天明六年(1786)に村医者として迎えられました。その間、文化四年(1807)には、高浜に恐ろしい疱瘡の大流行があり死者百数名にのぼりました。堅毓先生は、疱瘡患者を隔離した山小屋に単身乗り込み、医師として献身的な治療に当たり多くの全快者を出しました。この功績を天草郡医師会は、平成元年十月、百年祭記念式典の際天草医療の先達として堅毓先生を顕彰しました。先生は一度も故郷に帰ることなく、文政十一年(1828)九月十日享年七十歳でこの地に永眠しました。

 この墓は、高浜小学校の近く、元駐在所があった地の上にあります。 


 文化四年(1807)、高浜村(現天草市天草町高浜)で、疱瘡(天然痘)が発生、大流行した。
 時の庄屋、上田源作(宜珍)は、この対策に苦労している。
 この様子は、「天草郡高浜村庄屋 上田宜珍日記 文化四年 文化五年」に詳しく記されている。
 この日記を読むと、種痘がなかった当時の、疱瘡対策が如何に大変であったかがよく分かる。
 上田宜珍から頼まれて、治療に当たったのが、宮田賢育である。
 宜珍日記には、
  「文化四年 十二月十六日
    宮田賢毓老今日山小屋へ差遣申候・・・」

『天草近代年譜』には、次のように記してある。

高浜村諏訪通りから流行し出した疱瘡が、罹病者が、翌春180余名に及ぶ。
庄屋上田源太夫(宜珍)、医師宮田賢育を頼み、山小屋での救護に当たらせる。
最初撚りの罹病者150人中61人死亡し、90人は助かる。
その後収まったと見えたので、医師引取後またまた14人が患い、11人が死亡。更に相次いで20人程も続出。いずれも船により他国養生に出す。