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宗 像 堅 固    本戸組楠浦村庄屋 

  宗像堅固の名は地元を除いて、いまいち浸透していないように思える。
 過去の人々が、先人の成した業績を顕彰することは、大切なことである。
 ただし、その先人たちの業績は、ややもすれば一部の人に偏りすぎという感は否めない。
 例えば、業績は別として、天草の歴史上、全国的に名を馳せているのは、天草四郎。
 彼は、彼がなした業績が如何に後世の人に評価されるかという点に於いて、疑問は多々あるが、現在のただ単に浮ついた観光事業等で、全国的に名を高らしめているに過ぎないともいえなくもない。
 しからば、本当に評価すべき人は誰?
 という、命題になる。
 そこで、筆者的に考えたのは、その対象となる人は、封建的社会にあって、弱者の立場に立って、その行動を起こした人になるのではないだろうか思う。
 勿論、そういう立場からいえば、為政者の圧政の元、敢然と反抗を翻した天草四郎とその一派は、充分に資格がある。
ただし、ここで言いたいのは、彼の大乱の時期と違って、徳川盤石の時代。どんなに人々が飢え苦しんでいても、普通に反抗さえできなかった時代のこと。
 一般的に、百姓という身分で、虐げられた人々も、ただ単にかしずくだけでなく、自らその逆境を乗り越えるバイタリティテーを持っていた。そのことを筆者は大いに評価したい。その第一人者ともいえる人物が、ここに取り上げる宗像堅固その人である。

 勿論、彼の事績は、後世に伝わるものであり、真に彼のことを表しているかというと疑問もあるが、少なくとも後世に名を残す人は、常人が成し得ない業績を行ったことは、間違いない事実である。
 というわけで、この項は、宗像堅固という人の、人間性、事績等に迫ってみた。
 ただし、筆者の能力不足や史料不足により、彼の人間性、業績の万分の一しか語れなかったことは、お詫びしたい。
 同時に、宗像堅固という人物について、更なる研究が進まん事を願う。

 宗像堅固の業績は多いが、そのトップで、然も突出した業績に上げられるのが、悪田と言われた前潟新田を美田に変えた業績であろう。
ただし、ここで言いたいのは、彼の大乱の時期と違って、徳川盤石の時代。どんなに人々が飢え苦しんでいても、反抗さえできなかった時代のこと。一般的に、百姓という身分で、虐げられた人々も、ただ単にかしずくだけでなく、自らその逆境を乗り越えるバイタリティテーを持っていた。そのことを筆者は大いに評価したい。
 その第一人者ともいえる人物が、ここに取り上げる宗像堅固その人である。



   宗像堅固の肖像画

 
 宗像堅固は、幕末から明治初期の人である。幕末には日本に「写真」が入ってきており、多くの歴史的人物の写真も残されている。
 ただ残念なことに、わが天草までその写真撮影は普及していなかったと思われ、明治17年まで生きた堅固の写真が残っていないのは、誠に残念である。
 この肖像画も、楠浦町誌には、似顔となっているところから、後世の人が想像して描いたものと思われる。
 髷を結い、小刀を手挟んでいるところから、少なくとも明治四年以前の堅固のことだと思われる。
 もっとも、彼を想像でなく、目の当たりにして描いたとの前提だが。
 仮に明治四年に描かれたとしたら、堅固は当時52歳であり、絵との違和感はない。

 左の肖像画は「楠浦町誌」に掲載されているのをお借りした。


 楠浦・釜の迫堀切大事業
   宗像堅固の最大の業績は、何といっても、悪田であった前潟新田を美田化した、釜の迫堀切(鑿河)大事業である。
 彼の大事業を讃える「鑿河碑」が、釜の迫堀切の始点に建てられている。そこで、その鑿河碑を元に、彼の業績を辿ってみよう。

   鑿河碑

明和紀元甲申 肥後天草郡牛深村豪農助七就郡之楠浦前潟 築塘新墾田若干頃 以貽子孫
此地有二水 一曰方原川 一曰橘川 自方原注者較大 産白魚 故呼為一名
年々霖潦 砂礫推積 塘荒為蟻鼠所窟穴 涓々不壅
至嘉永年間 壊破已甚 潮汐侵入 地之可耕者益縮 而子孫瑞衰微 不能修治之
安政巳未年 遂以授浦中大姓宗像堅固久義 堅固其通称久義 世為郷長 志操清廉 有才略 熟察其水利 将大有為
親戚故奮 皆諫曰事如難成 徒費心力敗財産 以自貽笑耳 
久義不肯曰 縦不能成功 非敗父祖奮業 至費用粍失豈無不累債主之慮哉 上不虧官税 下為郷里與 永久之利 不亦可乎
得地之後二年辛酉 決策告于官鑿釜廻山 使方原水折肱南注于海 以得免渟潦之害
鑿開廣七歩延殆二百歩 巌石総平均七丈六尺 土砂九尺 総四千三百八十三坪  賃傭四万一千餘夫 鍛工一千三百餘 用鉄生剛率二千五百觔 叉改築奮塘及石閘吐水口等 費総計三千八百余金
至元治元年甲子冬十月竣功
田穀之入加奮額八百苞々五斗 毎値朔望前後之潮候 容舟大至 十二三幅帆 河上諸村 出薪木外 浦漁人入 糞田魚物者 共得其利便焉助七築塘之後 自魚不上久矣 到干此 乃復舊  
客年春 所獲概抵五十金餘
郷長不肯私 其利両分 漁處一以属 幹鑿築之事十六人 一以周于村民 衆皆感其義恵 以楽偉挙之有成 於是乎 
鑿河両岸 植桜三百六十株 以准闔歳日数 擇立碑 地環植十二株 以應月数 翌年花候 村民咸集 相與宴楽 遂以為例 乃分田二段 以授所謂十六人 永免加地子之半 使之為花時宴會之主 而共辨其費 以庶幾後之人亦不忘其初 和楽無恙云
嗟不亦甚盛美事乎
 慶應丙寅之夏碑石工成為叙其概弁撰銘以應副銘曰
  疏鑿有成。居民悦懌。
  盛植花株。爰開勝跡。
  会飮擬酺。誰知王澤。
  塘之堅固。義拳永伝。
  実符其称。果非偶然。
  片石勤功。不朽萬千。
   佐賀後学草場鞾撰  宗心現蕫興法書

  (「天草史談 4」及び現地調査)

   

  鑿河碑文・解読文(楠浦村顕彰会)と独自解釈

 現地に鑿河碑文を解読した案内板が建てられている。ただこの解読文だけでは説明不足と思え、更に詳しい説明も必要と感じたので、以下、大胆にも筆者独自に解釈を試みてみた。

   ◇ は、鑿河碑碑文
   ◆ は、その現地にある楠浦町顕彰会の解読文
   ○ は、筆者の独自解釈論

   明和紀元甲申 肥後天草郡牛深村豪農助七 就郡之楠浦前潟築塘新墾田 若干頃以貽子孫
 

   明和元年(1764)甲甲、肥後天草郡牛深村の豪農助七は、楠浦村の前潟に塘を築き、新たに若干の田を開墾し、しばらく子孫に残してきた。
 
   牛深村豪農助七とは、牛深村の銀主万屋助七のことである。
 豪農とあるが、万屋は商業資本家的大地主であり、自らは農業をしていないので、農地を多く所有していても、豪農というにはちょっと無理があるのではなかろうか。
 その助七が干拓してまで農地を所有するのは、小作者に耕作させ、自らはその利を得るためである。
 さて、碑文には、助七が塘を築き新しく開墾したように記されているが、これは正確ではない。
 江戸時代は開墾干拓の時代ともいえるほど、天草各地に新田が開発された。楠浦の前潟新田もその一つである。
 前潟新田を本格的に造成したのは、湯船原村の庄屋(猪原)兼兵衛である。彼は、明和元年に締切場石寄せ願いを代官所に申請し、土手築立てに着手、翌年竣工した。
 早速、田植えを行ったが、翌年に兼兵衛が死去。さらに梅雨時期に洪水が起こり、締切土手が損壊し、海水が入り込んで、せっかく植えた苗がすっかりダメになってしまった。
 父の跡を継いだ恒左衛門が、その復旧に取り掛かり完工した。この大洪水は、楠浦だけの話でなく、恒左衛門が所有する湯船原村の新田も損害を受けていた。さらに、父が数人の銀主に多額の借銭を負っていて、その返済に苦慮していた。そこで、恒左衛門は、前潟新田の処分に踏み切った。
 その買い手が、助七であった。恒左衛門は、約230両で助七に永代譲渡した。
 つまり、助七が開発したのではなく、助七は、恒左衛門から買い取ったに過ぎないのである。
 このいきさつは、「本渡市史」に詳載されているので、参照されたし。

   此地有二水一曰方原川一曰橘川自方原注者較大白魚故呼為一名
   この地に二つの川があり、一つは方原川、もう一つは橘川という。方原から流れる川は比較的大きく、白魚が多く産したのでそれがもう一つの名前として呼ばれていた。
 
   白魚が多く産していたので、白魚川と呼ばれていたのだろうか。一方の橘川は、昭和になると七ツ枝川(上流)、大友川(下流)となっている。
 
   年々霖潦砂礫推積塘荒為 蟻鼠所窟穴涓々不壅 至嘉永年間壊破 已甚潮汐侵入地 之可耕者益縮而 子孫瑞衰微 不能修治之
 
   しかし、年々、長雨によって砂礫が堆積し堤が荒れ、蟻鼠が穴を掘って小さな流れを塞ぐことができなくなっていた。
嘉永年間(1848~1853)にひどく破壊されたため、海水が浸水するようになり、耕作する場所が少なくなってしまった。
 子孫の力も衰退するばかりで、これを補修することもできなくなった。
 
   嘉永年間といえば、新田築造から約80年後である。この間、天草災害史を見てみると、通して大雨洪水などがたびたび起こっている。特に、文政十一年(1828)八月九日には大風(たぶん台風)による、超被害が発生している。この時の田んぼの被害は、1099町に及んだ。また、天保年間には、天保の大飢饉と呼ばれる、大災害・大被害が起きている。これらの積み重ねが、子孫の力を衰弱させることに繋がったのだろう。
 
   安政巳未年 遂以授浦中大姓宗像堅固久義 堅固其通称久義 世為郷長志操清廉 有才略 熟察其水利 将大有為
 
    安政六年巳末(1859)の年、楠浦を預かる宗像堅固久義がこれを行う。
 堅固はその通称を久義といい、引き継いで郷長となった。
 宗像堅固は、志を変えず、清廉であり、才能と智略に長け、その水利を十分に知り、今まさにその大事業を行おうとしている。

 
    堅固は通称というか、後の人が堅固と名付けたと思われる。古文書には健固となっている。子の松彦が建てた堅固の墓には、健吾となっているが、戒名塔には堅固と刻されている。どうも現代人は、名前の漢字にはこだわりがちだが、昔はそんなにこだわっていないように思える。
 ただしここでは、一般に通用している堅固で通す。
 天草で二三を争う資産家の万屋であったが、この頃になると、家力がやや衰退していたようである。
 前潟新田を買い取ったのはいいが、その田は美田には程遠く、収穫よりも補修に追われていたようである。やっとその普請を終えたころ、災害によって、堤防が破壊するという事態に見舞われた。
 また、本拠地が牛深という遠方(今の楠浦・牛深間ではない)であったため、管理も行き届かない面もあった。さらに追い打ちをかけたのが、助七の死去である。跡取りはわずか17歳の仙七であった。
 とうとう、万屋は、この新田を手放すことにした。買い手は、新田を目の前にして、居を構える楠浦村庄屋、宗像堅固である。
 堅固は、800両で仙七から購入した。安政六年(1859)のことであった。800両といえばかなりの大金である。とても一介の庄屋においそれと出せる金額ではない。宗像家は、なにか事業をしていたのだろうか。

 現在楠浦町から新和町へ県道26号線を走ると、道の両側に広々とした水田風景を見ることが出来る。前潟新田である。この前潟水田、広さ22町(22㏊)というが、堅固が買い取ったころは、10町余しかなかったという。しかも三下田である。三下田とは、当時の田んぼの質を示すものである。田んぼの質、つまり出来具合によって、五段階に分けられていた。上・中・下・下々・三下の5段階であり、三下とはもっとも下に位置する田んぼである。これが年貢附課の基準等級とされていたのである。獲高は、31石余。しかも、立地条件の悪さから、取れ高の改善が見込めないどころか、荒廃を極めていた。
 その条件を悪くしているのが、皮肉にも水田に欠くことが出来ない河川、つまり方原川であった。
 この河川改修を、堅固は何とかできないかと考えていたのである。

 ここで、当の堅固氏本人に、開発に対する思いを語ってもらおう。

 前潟新田は私の屋敷続きの場所にあるため、どのような対策を立て、堅固に普請を行えば、子孫のため、また御上に対しても、御奉公の一端になるものと思い、譲り受けた。
 そのため、目論見を熟考していたところ、助七が見込んでいた通り河川の普請を行っても、新田上古田境より締切堤防まで、1・36㎞もある。中央より下方も550mもある地盤軟弱な深沼である。
 先年猪原勘兵衛が築き立てして以来、度々堤が破損してきたのもこのためである。
 また、水源の方原という、12㎞も上流の山中から流れ来る川尻にあるため、土砂小石等が夥しく流れ来る。そのため、満潮、洪水、風波の影響で、数百閒もある川土手は、後年破損は免れぬものである。
 そのため、尋常の普請では、後患無きようのことは出来かねることと思い、種々研究を行ってきた。
 その研究の結果、釜の迫山の土地及び田地を買い受け、釜の迫山と田地を掘り通して、新川を作り、悪水を南の海へ流すような策を立てれば、水害を免れるのみならず、一体堅固になる。
 さらに後患ないことは勿論、水害が免れるという事は、水浸しの場所かつ汐溜め等の一部は、新たな開発もでき、作地も広まる。
 川土手は約730mも縮まることになり、川の土手や土手敷きも新たに作地とすることができる。
 すれば横幅平均約55mとして、反別にすると4ヘクタール広まる。釜の迫の田地5アールと新しい川床になる部分を差し引いても、全部で3.5ヘクタールも作地が広まる・・・・・。
(宗像家文書「楠浦村前潟新田請地一件口上書控」から「本渡市史」に掲載文を筆者にて解釈文に変記)

 
    親戚故奮 皆諫曰事如難成 徒費心力敗財産 以自貽笑耳 
 久義不肯曰 縦不能成功 非敗父祖奮業 至費用粍失豈無不累債主之慮哉 上不虧官税 下為郷里與 永久之利 不亦可乎

 
   しかし、親戚や旧知の人達は皆、彼を諫めて言う。「これを成すことは難しい。いたずらに精神を使い、財産を失うようなものであり、笑いものになるのみである」と。
 久義は、それには納得せず、たとえ自らが成功できなかったとしても先祖代々の事業を損なう事にはならない。
 費用の損失に至ってはどうして債主に心配させるようなことがあるだろうか。上にとっては公の税を減らすことなく、下にとっては郷里に永久の利を与えることが、可能となるのではないだろうか。
 
   堅固は、周囲の反対を押し切って、大事業に取り組んだ。彼に勝算あってのことだったのだろうか。碑文にいうように、堅固が水利を熟知していたどうかは分からない。前述(本人談)のように、どうしたらいいか、自らも現地調査を重ね、その道の技術者(当時いたかどうかは不明だが)たちに教えを乞った結果、決断に至ったのであろう。
 とはいえ、この事業には莫大な費用がかかることが分かっており、もしかしたら、周囲が言うように、目も当てられない結果になる恐れも十分あった。

 
   得地之後二年辛酉 決策告于官 鑿釜廻山 使方原水折肱南注于海
 以得免渟潦之害 鑿開廣七歩 延殆二百歩 巌石総平均七丈六尺 土砂九尺 総四千三百八十三坪 
 賃傭四万一千餘夫 鍛工一千三百餘 
 用鉄生剛率二千五百觔 叉改築奮塘及石閘吐水口等 費総計三千八百余金
 
   地を得てから後(安政六年(1859)に、牛深の銀主万屋の仙七から宗像堅固が前潟新田を800両で買い取った)、二年後の文久元年辛酉(1861)に計画を決定し、これを申し出る。
 釜の迫の山を開削して、方原川の水の流れを南に折れて海に注がせるという計画である。
 代官所の許しを得ると、水がたまってしまう害があったところを切り開き、広さ七歩(約23・1㎡)であったところを、ほとんど二百(約660㎡)歩に伸ばした。
 けわしい岩山はその高さ平均七丈六尺(22.8m)、土砂は九尺(2.7m)、総計で4,383坪、日雇いの人夫は述べ4万1千人余、鍛工(鍛冶)は1千300人余りを用いた上、鉄をかたく鍛えるのに2千500人を率いて行った。
また、古い水門の吐水口などの改築に総計三千八百両を費やした。

 
   鑿河碑の建っているところに行くと、この釜の迫掘り切りが、如何に大事業であったかがよく分かる。碑文にもそのことを書かれている。

 方原川の右岸は、岩山に沿って流れている。元の方原川は釜の迫掘始点、つまり鑿河碑がある所から大きく左折していた。したがって、急に流れを変えられたため、大水の時は土手を崩し、或いは溢れ、田んぼへ土砂を流し込んでいた。このため、この鑿河碑のある地点から、元の流れと逆に右折させることにした。しかしそのためには、立ちはだかる岩山を掘り取る必要があった。

  碑文にも、数字を使って説明がなされているのがいまいちよく理解できない。
 
  岩盤の高さ   平均23m。   
  表層土砂     2.7m。
  高さ計      約26m。
  川幅        13m。
  全長       545m。
  総表面面積   7,085㎡。
 これから計算すると、掘削体積は18万4,210㎥になる。
 碑文には、4,383坪となっているが、坪は面積の単位であり、この坪数の意味が分からない。面積とすると、川幅×長さであるから、7,085㎡。これを坪に換算すると、2,146坪になる。
 ま、筆者を始め多くの人は、土木的知識はほとんどないと思えるので、ここで数字をいじくるより、実際現場を見ることで、その事業規模の程度が分かると思う。この規模の工事、現代の機械力を持った技術でしても、かなり大規模な工事であると思うが、それを全て人力で成したという事実。これは、現在人が学ばねばならないことかもしれない。

 人夫述べ4万1千人は、当時の楠浦村の人口が男女合わせて約2,200人。この内の労働可能人口を推定し、七割としても1540人。これらの人がすべて工事に従事したとして、ひとり当り27日稼働していることになる。
 分からないのが、用鉄生剛率という言葉。現地の解読文には、「鍛工(鍛冶)は1千300人余りを用いた」と記しているが、意味が違うように思う。それは、二千五百という数字に「觔」という単位を使っていることだ。觔は重さの単位、即ち斤のことである。とすれば、2,500人でなく、2,500斤という事になる。1斤は600g。すれば2,500斤は1,500㎏。生剛率は辞書を開いても分からないが、多分鉄を1,500㎏も使ったという事だろう。だとしたら、当時としたら、鉄の生産量からしてすごい量と思われる。加えると剛とは鋼のことではないか。つまり、鋼にしての2,500斤という事になるか。

 さて、その総工事費は3,800両。先に購入に800両費やしているので、4,600両。途方もない金額である。これらの資金を、堅固はどう工面したのだろう。現在ならば、公的資金の補助がかなりあると思えるが、当時は、口は出しても金は出さないのが御上。
 宗像家の財力がいかほどであったかは分からないが、先祖代々の囲金(貯蓄)を使い果たし、田畑を質に入れ、それでも足りずに、前潟新田そのものを質にして借り入れたという。その上、利息の追い繰り、公儀筋からの拝借夫食米返納など、疲労困憊の極みであった。(本渡市史)

  
   至元治元年甲子冬十月竣功
 田穀之入加奮額八百苞々五斗 
 毎値朔望前後之潮候 容舟大至 十二三幅帆 河上諸村 出薪木外 浦漁人入 糞田魚物者 共得其利便焉助七築塘之後 
 自魚不上久矣 到干此 乃復舊 
 客年春 所獲概抵五十金餘
 郷長不肯私 其利両分 漁處一以属 幹鑿築之事十六人 一以周于村民

 
   元治元年(1864)甲子、冬十月に至り完成した。
 田穀の収穫量は、以前に比べて五斗俵で八百俵の増収となった。
 また一日と十五日前後の大潮の頃は、十二、三反の幅の船は川を上ることができた。
 諸村は薪木を外に出すことができ、浦の漁民も田にいれる魚肥などを運ぶのにたいへん便利となった。
 助七が塘を築いてからは、白魚が上がらなくなって久しかったが、ここにいたってまた去年の春からはこれが獲れるようになった。これはおよそ五十両余りに値する。
 郷長(堅固)は、その利を私有化することをよしとせず、白魚の漁場を二つに分け、一方をこの堀切を築くのに中心となって取り仕切った関係者16人に、もう一方を周辺の村の民衆に与えた。

 
   ここでいう収穫量は、籾でのことかと思われる。5斗入りで800俵とは、4,000斗である。1斗が15㎏だから、6万㎏。60トンにも及ぶ。
 また1斗は、18リットルだから7万2千リットル。昔の単位でいえば、400石に相当する。
 例え、半分を年貢に取られるとしても、収穫高は200石。
 12反の船とはどの位の大きさか見当がつかないが、ネットによると、10m幅の帆のようだ。とすればかなり大きな船である。ひょっとしたら、撰文氏が誇張したのかもしれない。ただ実際堀切を見ると、川幅がかなり大きく、水深を除けば、かなり大きな船が通れると思えた。

 白魚は現在も、近くの新和町大宮地川でよく獲られている。先日この釜の迫堀切を訪れた際にも、白魚獲りの仕掛けがあった。今でも、獲れるという事だろう。ただ、白魚の猟期は短いと思うが、一猟期に50両もあるというのは、現在からしたらとても考えられない。
 先に述べたように、経済的に疲労困憊であった堅固であるが、彼の偉いところは、堀切により益が出たのを、全て私としなかったことだ。

 
   衆皆感其義恵 以楽偉挙之有成於是乎。
 鑿河両岸 植桜三百六十株 以准闔歳日数
 擇立碑 地環植十二株 以應月数。翌年花候 村民咸集 相與宴楽 
 遂以為例 乃分田二段 以授所謂十六人 永免加地子之半 使之為花時宴會之主而共辨其費 以庶幾後之人亦不忘其初和楽無恙云
 嗟不亦甚盛美事乎

 
   皆その義と恵みに喜び感じ入り、優れた事業がここにおいて完成した。
 鑿河した両岸に、桜の木を360株植えたが、これはおそらく一年の日数になぞらえたものだろう。
 碑を建立した土地を選んで、周りに12株を植えているが。これはおそらく月数だろう。
 翌年、花の頃には、村民皆が集まり、花見の宴を楽しんだ。
 思うに田二段を分けて授かった、いわゆる16人(堀切を築く際に中心となった関係者)は、加地子(小作米)の半分を免じられていたが、彼らを花見の宴会の主として、その費用は共にきちんと分け合った。
 願わくは後の人もまた初めの和楽を忘れんことを、また恙無く過ごすよう。
 ああ、なんと、華々しさもなく質素であることか。
 
   現地案内板の著者には申し訳ないが、やや解読に無理があるようにも思える。
 例えば、16人の功労者に、特別に報いをしたのは分かるが、宴会費まできちんと分け合ったというのは、ここに特別に記す必要があるのだろうか。宴会費を分け合った、現代風に言うなら、割り勘で行ったという事ではなく、本来なら、宴会の主、つまりここでは、事業主の堅固が出すところを、〝いやいや、宗像庄屋様のお蔭でワシらも大変利得を得ることができるようになりました。ここは、この費用(宴会)はワシ等に任せて下され〟と、いう事ではないかと思うのだが、如何だろうか。
 筆者も桜を遊休地に植えているが、桜の苗木を植えても、すぐには花が咲かない。翌年に花が咲くとは、やや難がある。ただ、この頃の桜は、恐らく山桜で、現在の桜とは異なっているとは思う。山桜は生長が早い。
 
     慶應丙寅之夏碑石工成為叙其概弁撰銘以應副銘曰
 疏鑿有成 居民悦懌 
 盛植花株 爰開勝跡 
 会飮擬酺 誰知王澤 
 塘之堅固 義拳永伝 
 実符其称 果非偶然 
 片石勤功 不朽萬千 
  佐賀後学草場鞾撰  宗心現蕫興法書

 
   慶応二年(1886)丙寅の夏、碑の石工、叙(はしがき)をおよそ銘とかねてつくり、またその銘にそえて曰く、
   山を切り開き 住民の喜ぶところとなる
   盛んに花を植え、ここに名勝地を開く
   会して飲し 酒宴に疑える 誰が王澤(君主の恩沢)を知るだろう
   塘は丈夫で強固であり 義挙は永く伝えられる
   まことの印を称える 果たして偶然ではないだろう
   石のかけらに業績を刻む 朽ちることなくそれが長く伝えられる
    肥前佐賀藩の儒学者草場鞾の文
    宗心現蕫興法書   宗心寺住職澤田興法の書
  
   釜の迫堀切大事業は、起工したのが文久元年(1861)、竣工が元治元年(1864)
事業の割には、案外短期間で完成している。現在のように、土木機械もなかった時代、恐るべき昔人である。
 竣工から2年後の慶応二年(1866)に、鑿河碑が建立された。したがって、宗像堅固も健在(47歳)であった。
 筆者は漢文の素養は全くないので、誤り覚悟で述べると案内板の「碑石工成」を「碑の石工」と記しているが、ここは碑石即ち鑿河碑が完成したと解すべきと思うがいかがだろうか。
 ちなみに現在の案内板の前に設置してあった案内板には、次のように訳されていた。
 慶応二年の夏、碑の石工なり。叙をなすに於いて。撰銘をもって、副銘とする。
 これも分かりにくいが、現在のより、正確であるように感じる。この石工とは、現在では石細工職人を表すが、当時的には、石碑と解すべきと思える。
 漢文はなかなかむつかしく、然も和的漢文になっているので、現在のように法的に決まった法則はなかったようで、解釈をする人それぞれ様々で、したがって、色々な解釈が行われているように感じる。
 最後に、この銘文の作者、草場佩川について、調べてみた。

 撰者 草場鞾について
 草場佩川(くさばはいせん)
  天明七年(1787)一月七日 ~ 慶応三年(1867)十月二十九日
  江戸時代の儒学者。
  佐賀藩多久領出身で、江戸で古賀精里に学び、佐賀藩校弘道館教授を務めた。佩川は号で名は鞾(さかえ)。
  漢詩人として知られ、文人画にも優れた。(ウィキペディア)

 佐賀の草場鞾が、どういう手づるで、堅固の鑿河碑の碑文を撰したのか。書は宗心寺の沢田住職であり、この住職と知合いであったのだろうか。
 ちなみに、釜の迫堀切は元治元年(1864)に完成している。
 鑿河碑の建立は、碑文によると慶応二年(1866)となっており、この時草場鞾は81歳の高齢であり、翌年に死去している。

 また、現在の鑿河碑は、昭和八年に再建された。したがって、原文は元石碑の通りかもしれないが、筆は澤田興法のものではないと思える。

 
     宗像堅固久義氏村治功績年譜

   天領天草郡楠浦村において誕生する          文政二年(1819)五月二二日
   飢餓の救助                     天保八年(1837)
   栖本村漁場の論議に対して調査確認を行う       嘉永五年(1852)
   村社である諏訪宮の改築               嘉永六年(1853)
   方原大村に林があり、これを正して勝訴する      安政三年(1856)
   下浦村漁場の論議に対してこれを解決する       安政四年(1857)
   舟津大火措置                    安政五年(1858)
   鑿河 大いに難しい工事を起工する          万延元年(1860)
   錦島塩田堤防が竣工する               元冶元年(1864)
   宗心寺開山 壇徒の安全祈願             明治十三年(1880)
   楠浦村戸長を辞職                  明治十四年(1881)
   熊本県天草郡に於いて逝去              明治十七年(1884)四月二五日
 
        昭和八年三月吉日

 
   碑の台座には、宗像堅固の功績年譜が刻まれており、現地の案内板にも書かれている。だが、この功績の大ともいえる方原川の「楠浦の眼鏡橋」架設が、案内文には欠けている。案内板作成者が抜かったようだ。

   眼鏡橋架設         明治十一年(1878)
     
      鑿河工事・釜の迫堀切完成について、「天草近代年譜」には、こう記してある。
  
  元治元年 
--  楠浦村庄屋宗像堅固の発意尽力になる同村釜ノ迫堀切り漸く完成す。
             実に延人員4万1千人、延鍛冶工1千300余人、工費3千800両なり。
 

   
「鑿河碑」と碑文の一部

  天草市楠浦町振興会が建てた鑿河碑の説明看板 
 


 


  
 



 宗像堅固第一の功績、楠浦村前潟新田釜の迫堀切り。
 鑿河碑はこのほとりに建つ。


 下写真は、堀切唄の歌碑

  経済的にも大変な時期にも関わらず、堅固は唄を作り、みなに歌わせている。節回しは「潮来節」に似たものという。現地の碑より。
  宗像堅固作 堀切祝い唄 (節回し・潮来節)

1 さても珍らし 楠浦普請 長さ五町に 底五丈
  上で 二十と一間に 高さ九丈の岩山を
  のみや小槌や玄翁や かなてこ やまぎり 雁づめの
  細工に 日々 鍛治五人 六とせの末にて ようように
  いまでは白帆が はしりいる

2 それで田地も 倍ひろまりて たきぎ積み出し 
  こえとりも 船で門まで積入る 田畑作物 稔り増し
  百姓 次第に便利よく 肴は堀切 川筋の
  新規の白魚 青のりや 其の外いろいろ 添えまして
  朝から晩まで 呑みくらす

3 春は堀切 両山岸へ 桜品々 咲くころは
  吉野初瀬や嵐山 ここに来しかと思われて
  高き賎しき おしなべて 船や 磯辺や 山々に
  朝間夕間のさかいなく 遠ち 近ち 花見に来る人は
  つぼみのうちより 絶え間なし

4 秋は川土手 楓紅をなして 龍田の詠の そのままに
  風に散る葉の堀切に 流れ落ち合う錦川
  うづまく水に ゆうゆうと 波のまにまに浮かみいで
  四方の紅葉も色そえて 景色いやます 長堤
  むかしにまさる 楠の浦
  (宗像本家記録より)

  
 



 宗像堅固の墓   天草市楠浦町 
 宗像堅固の墓は、庄屋家の裏手の共同墓地、宗像家墓所にある。
 

 宗像堅固 墓碑

 大亮院禹功宗久居士

   明治十七年申四月二十五日

   宗像健吾墓 松彦立之

   宗久居士者性温良剛強幕府代勤
  務庄屋役多年経営村社石橋亦鑿
  白河経六年而成功 其艱苦奈可
  謂哉故有禹功之稱其他細大統畫
  村益愛撫民故拝領公賞数回
  至明治世復勤村長生涯可謂勤
  嗚呼云宗家中興豈証言乎
   維持明治二十有三年龍舎庚寅秋日

         宗心幻住興法敬識


 
 

 楠浦の眼鏡橋架設
 
  楠浦諏訪神社横の方原川に架けられている石橋が「楠浦の眼鏡橋」である。この橋は、宗像堅固の尽力により、明治11年に架けられた。明治11年といえば、かの大乱「西南の役」の翌年である。この役の最中、天下の名城熊本城は消失したが、天草では後世文化財となる、この楠浦の石橋が造られた。
 石は下浦石。祇園橋を初めとして他の石橋も下浦石と思えるが、地元に石橋に適した石があり、かつ石橋を造ることができる、技術と石工が地元に存在したということも、石橋建設に必要なことであった。
 下浦は瀬戸海峡を隔てた地にあり、石を楠浦まで持ってくるには、海上を運搬しなければならない。恐らく宗像堅固が開削した釜の迫堀切を利用したに違いない。
陸地の運搬は、相撲取りの一文字が木馬に載せて、牛に曳かせて運んだという。
 石橋建設には、石工だけでなく、仕保工という木の枠組みつくりも重要である。この支保工を造ったのが、楠浦の大工和田茂七である。茂七は九州各地から引っ張りだこの優秀な大工であったという。
 石工は、下浦の松次、打田(栖本)の紋次だという。眼鏡橋際に楠浦の諏訪神社がある。この神社に明治10年建立の鳥居が現存する。この鳥居には、発起が宗像健吾で、石工が3人刻字されているが、そのうちの一人に横山松次となっている。この横山松次は、石橋の松次と同一人物であることは間違いない。
 
 九州本土には、古くから眼鏡石橋が架けられているが、天草ではこの楠浦の眼鏡橋が一番古い。それでは、宗像堅固は、なぜ費用も掛かる石橋を架けようとしたのだろうか。
 もし、この橋がなかったとしたら、どういう状況であったかを考えてみよう。
 多分木橋はあったと思うが、洪水の度に流されたり、腐朽により架け替えも頻繁であったろう。もし、木橋が壊れていた場合は、そんなに川幅が広いわけではないが、川を渡るには大変不便であったことは、想像に難くない。

 この石橋は、宗像堅固が企画したとされるが、堅固がどれくらいの割合で関わったのであろうか。橋建設の費用は248円59銭であったというが、費用の捻出はどうしたのだろうか。
 着工は、明治11年6月に着工し、8月に完成したというが、石の切り出しから、細工までは随分時間が掛かったことが、容易に想像できる。

 橋の構造、寸法については、現地の案内板を参考にされたい。
 
       
 
 楠浦の眼鏡橋は、平成18年に熊本県指定文化財となった。天草には数多くの石橋が現存するが、国指定重要文化財の祇園橋と共に、県指定の石橋は、この楠浦の眼鏡橋、山口の施無畏橋がある。 
 かつて眼鏡橋の袂にあった、旧本渡市教育委員会の案内板と現在設置の天草市教育委員会の案内板を次に記す。
  
 
 現在の案内板
    熊本県指定文化財
    楠浦の眼鏡橋
     指定年月日 平成18年5月29日

 楠浦の眼鏡橋は、楠浦と宮地(現在の新和町)とを結ぶために方原川に架けられた石橋である。
 架橋に尽力したのは第一三代楠浦村庄屋宗像堅固で、明治一一年(1878)に完成した。石材は下浦石という、加工しやすい砂岩で、石工は下浦の松次、打田の紋次、足場枠組大工は楠浦の和田茂七である。
 楠浦の眼鏡橋は、橋全体が緩やかなアーチを描いており、ほかの石橋に比べて壁石が薄く、特にアーチ中央部は壁石がなく輪石のみという点が特徴的である。
 その姿は優美だが、大変堅牢な橋である。また周囲の田園風景とよく調和し、特に楠浦諏訪神社秋季例大祭に神幸行列が橋を渡る様子は壮観である。
   天草市教育委員会・天草市楠浦地区振興会
 
    旧案内版  

  天草市指定文化財  楠浦の眼鏡橋
    指定年月日 昭和33年5月1日
    所在地 天草市楠浦町字中田原

 この眼鏡橋は、楠浦~宮地往還を結ぶために方原川に架けられたもので、釜の迫の掘切りと共に、楠浦村庄屋宗像堅固氏の威徳を後世に伝える二大事業の一つである。アーチ型の石橋は優美にして且つ堅牢、橋長26m33㎝、橋巾3m5㎝ 明治11年6月11日から80日間で完成している。石材は下浦石で、石工も下浦の松次、打田の紋次、足場枠組大工は楠浦の和田茂七である。
 宗像庄屋はこの架橋工事の25年前に前潟新田の水害を救うため、方原川の下流を変える釜の迫の堀切りの大工事をなし遂げている。即ち万延元年(1860)から元治元年(1864)まで実に5年余りの歳月と延4万5千余人を使った大工事であった。削河碑は、方原川が「なきごしの海」に曲がる河畔に建てられている。
   本渡市教育委員会
 
 
  〖眼鏡橋論〗
 一般に目鏡橋(土地により眼鏡橋あるいは目鏡橋と書く)と呼ばれる石橋は、九州各地に架けられ特有の姿を今日に残している。ふつうの橋は柱を立てて長い桁を渡すが、多くの石を円弧状に積んで架けるのをアーチ石橋といい、アーチの形が丸いところから、太鼓橋とも目鏡橋とも言う。そして、一つの目鏡でも二つの目鏡でも一様に目鏡橋と呼ばれている。
 長崎、佐賀方面では眼鏡橋と書くが、熊本県では目鑑橋が多い。鹿児島では太鼓橋という呼称を使っているが、ここ秋月では、目鏡橋という字を当てている。・・・(山口祐造著『秋月目鏡橋物語』秋月郷土館)より
 

 

船津大火始末
 
 
  鑿河碑に刻まれている宗像堅固の業績の一に、「舟津大火措置 安政五年」がある。
 これは、安政五年(1858)に、楠浦村舟津地区で大火が発生し、それの対応・対策に宗像堅固が尽力したということである。
 この船津大火の始末が、『本渡市史』に詳しく述べられているので、それを参考にかいつまんで記してみたい。◇

 発生は、安政五年十月九日九ツ半に出火した。西暦に直すと、1858年11月14日午後1時頃である。 
 出火元は、右衛門厄介別宅の漁師惣太郎(30歳)宅で、惣太郎は野母半島樺島方面へ漁に出ていた。家には妻ゐまがいたが、出火原因は、そのゐまの火の不始末によるものであった。
 現在は、重過失や故意でない限り、出火の罪は問われないことになっているが、当時は保険制度もなく、例え不注意とはいえ、それなりの刑罰が課せられた。
 舟津地区は、現在もそうだが、漁師村で人家が密集していた。また家屋は藁ぶき屋根で、一旦火が出たら、類焼延焼は免れない所である。さらに、折りからの北西の季節風が強く、その強風が延焼に手を貸した。
 舟津地区には、383軒の家屋があったが、その内110軒の人家と小屋1軒が焼失した。舟津の漁師の家族がすべて焼け出されたという。

 庄屋宗像堅固は、早速現地に入り、富岡の役所に火災があったことを報告している。
 当時は、度々大火が起きているが、届を受けた富岡役所は、事の重大さに驚き、役人を現地に派遣し、その現地検証を受けて、対策を協議した。
 そして、宗像堅固を始め、村役人を富岡に召還した。本来なら、庄屋他村役人は、現場での始末に当たることが大事だと思うが、富岡まで償還するとは、当時の行政・司法が如何に不合理であったかがわかる。しかもその召喚状には「この書付披見次第、昼夜にかぎらず三役(庄屋年寄百姓代)、印鑑を持参して罷り出こと、もし参らない場合は落度となる」と、役所の権威をちらつかせている。

 しかし、役所も、一片の情けはあるようで、小屋掛け入用55両、類焼1件に付き金2分(半両)ずつを期限1年に限って、貸し下げている。援助金ではない、あくまで貸金であったが。
 これに、保証人として、庄屋、年寄、百姓代連名で、請書・念書を提出している。
 
 出漁中であった火元の惣太郎は、大火発生後から11日後に帰ってきた。電話連絡もない時代、漁の成果はどうであったか分からないが、帰ってきたら、我が家どころや、集落全てを焼く大火が起きており、しかも火元が自らの家とあっては、びっくり以上に、背筋が凍るほどであったろう。

 富岡役所は、年が明けた安政六年正月二二日付けの差紙で、二四日、宗像庄屋以下の村役人、惣太郎とゐま、その親類の伝助、五人組2人、類焼人総代3人ら関係者を召喚した。
そして、二六日には、関係者の判決を出した。
 刑罰は次の通り。
 惣太郎は押込め、ゐまは手鎖。
 庄屋以下村役人、五人組(全7人)は押込め。
 期間は不明。
 出火の罪として、村役人や五人組まで罪を問われることに、現在と比べ、当時は村落共同体としての連帯責任が如何に強かくかつ問われたかがよく分かる。
 被災者には、役所からわずかばかりの貸付金があったが、もちろん生活再建に足る訳がなく、夫食米200石の拝借を公儀に願い出ている。焼けたのは、家のみでなく、漁具漁網も失ったものも多く、漁に出るにも出られないため、暮らしに事欠いたためである。ただ、舟は焼けなかったようで、不幸中の幸いであった。
 この夫食米が貸し出されたのかどうか、市史には記して無い。

 さてこの年(安政五年)、宗像堅固は39歳の働き盛であったが、この頃、庄屋職しては大変な年であった。というのは、この年郡中でコレラが流行しているが、特に楠浦村で激烈であった。
 他村、自村の地区争い(土地や漁場をめぐっての争論)も多かったようで、安政三年には9ヶ年に渡る方原山論争がやっと解決し、四年には内容は不明だが、下浦村の船場地区民と漁場争議が解決している。これらにも、かなりの労力を使ったものと思われる。
 庄屋は自村の事だけ業務をしていればいいというのではなく、役人が少なかった天草では、その役人の代わりまで、業務? を行わされていた。
 この村どうしの争論としては、海老宇土(現枦宇土町)と、境を接する7か村の争いが、一番難題としてものであった。この争論には、何の関わりもない高浜村の庄屋上田宜珍が、仲裁に当たり、苦労の末解決している。


 
     


 楠浦村庄屋  
宗像家