上天草大水害

間一髪、奇跡の避難

=上天草大水害・旧姫戸町姫戸小学校牟田分校 =

 上天草市姫戸町の牟田地区にあった姫戸小学校牟田分校は、水害当時高台にあった。
 児童64人が学んでいた。
 その牟田分校を山津波が襲い、校舎は跡かたもなく消え去った。
 子供たちは、元気に登校し、学んでいた。
 もし、地獄のような悲惨な光景が訪れようと知る由もなく。
 そして、魔の時間が来た。
 山津波が校舎を襲った。
 もし、あと、数秒避難が遅れていたら、児童64人は、濁流の犠牲になっていたであろう。
 だが、教師の適切な判断と指示、児童の冷静な行動が、彼らの命を守った。
 以下、熊本日日新聞の記事を紹介しよう。

 出書=姫戸町の「写真で見る姫戸の歴史 なつかしき わがまち 被災、そして復興へ 昭和47年7月6日 天草上島大水害」より


間一髪、奇跡の避難

姫戸小牟田分校の児童64人

鉄砲水、校舎を直撃

濁流の中 見事なチームワーク

 それは奇跡というよりほかなかった-。
 天草郡姫戸町の姫戸小牟田分校は、山津波の直撃を受けながら、中にいた子供たちは直前に脱出に成功、間一髪で難を逃れたのだ。先生と子供たちの見事なチームワークが奇跡を呼び込んだ。集中豪雨の上天草は多くの犠牲と進まぬ復旧に重苦しさが立ちこめている中で、「牟田分校の全員無事」のニュースはさわやかな風を吹き込んでいる。

 部落の最も高台にある同分校に山津波が押し寄せたのは6日の午後零時20分ごろ。楽しい給食の直前だった。分校裏の通称"竹山"から流れ落ちた雨は校舎の回りにあふれた。突然、床から水がふき出し、「メリメリ」という音をたてて校舎は「く」の字型にへし曲った。
 中には64人の児童と6人の教職員がいる。「もうあぶない」-こう直感した分校主任の増永公彦教諭(53)は比較的安全な南側廊下に全児童を集め。「勝手な行動をとらないよう」注意したあと避難に移った。運動場は胸までつかる濁流。誘導の先生が先に飛び込み、そのあとに子供たちが続いた。下級生は、からだの一番大きな平田実君ら6年生が手を引いた。泳ぐ者、流される者・・・・。全員がそれぞれ安全な場所にたどりついたときだった・・・「ゴー」というごう音とともに"鉄砲水"と巨岩が校舎を襲った。校舎はアッと言う間に100メートル近くも押し流された。児童たちが避難を始めてから20秒もたっておらず間一髪の"セーフ"。
 この間、「分校があぶない」ということで、父兄や消防団は下の方から心配そうに見守っていたが、手のほどこしようもなかった。子供たちは午後1時には安全な高台に集まり、一人が足に軽いケガをしただけで、64人の全員の無事が確認された。駆けつけた父兄は「よかった、よかった。よく助かった」とうれし泣き。父兄の一人、山内忠男さん(40)=漁業=は「ハラハラしながら祈っていたが、子供の元気な顔を確かめるまでは助かったと信じられなかった。全くの奇跡だ」と大喜び。
 牟田地区は姫戸の中でもへき地。150戸。約500人が漁業で生計を立てているこじんまりした部落。それだけに団結も強い。"奇跡の生還"を成功したのも先生と生徒、上級生と下級生の呼吸がピッタリ合ったからだ。増永教諭は「子供たちがみんな先生の注意を守ってくれたのが一番大きい」と言う。
 「あと30秒脱出が遅れたら・・・。まずたすからなかったろう。考えるだけでゾッとする」とある母親。それだけに喜びが大きいのだろう。復旧作業はどこよりもピッチが上がっていた。あまりの大惨事に上天草地方はさながら"地獄絵図"。住民の足取りは重い。その中での牟田分校の明るいニュースは、姫戸だけでなく龍ヶ岳、倉岳町にも伝わり、暗く沈みがちな島民にいちるの明るさを伝えた。
 (昭和47年7月9日付 熊本日日新聞)

上天草市姫戸町牟田地区

 現在の牟田小は海岸沿いに移転した。
 上の広い道路は当時はなかった。
 ただし、牟田小学校は、現在閉校となっている。