牛深鰹流れ舟慰霊碑
江戸時代、享保の頃から、明治初期まで、牛深では鰹漁業がおこなわれてきた。 鰹魚は当然、遠洋(現代では近海であるが、当時としては遠洋の部類に入る)であり、船の設備、漁法、気象科学が未発達の中で、当然難破することが多かった。 その難波のことを「流れ」といった。 その犠牲者は120名にものぼるという。 |
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天草市指定文化財 牛深鰹流れ舟慰霊碑 指定年月日 平成9年5月28日 この碑は、鰹魚を専業としていた川端屋深川家が明治19年に建立したものです。牛深の鰹漁創始以来、遭難事例がいくつか報告されており、この碑は明治19年に吐噶喇列島の臥蛇島で遭難し、多数の犠牲者を出した時のものです。碑は砂岩が用いられ、側面には遭難者の氏名が、表面には詩が刻まれています。碑文の意味は「永遠に苦界に沈んでいたに違いない私は、仏法に巡りあったからこそ救われる」とされます。詩の文言などから、おそらくは浄土真宗の僧侶が書いた詩だと考えられます。 平成22年3月 天草市教育委員会 |
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川端屋の流れ舟慰霊碑 船津丸山墓地 表 |
左右には、犠牲者28名のの名前が刻まれている |
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田端屋、中嶋屋の流れ舟の墓 宮﨑墓地 |
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資料 「天草史談」第20号 天草史談会 「牛深の漁業の推移」吉岡威夫 小説 「流さん」 中島龍平 (第55回熊日文学賞受賞作品) |