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西道俊

西道俊の墓

 天草市五和町御領

≪墓碑≫

    享和二壬戌五月二日
   
西道俊先生之墓
    自刃于筑後高山正之
    墓側後葬此

 (意訳)筑後にて自刃後高山彦九郎の側に埋葬されたがその後この日移葬した。
 
(漢文に素養のない管理人の手によって訳したので、間違いがあったら誌的下さい)

≪案内板≫

 勤皇の志士・西道俊の墓
      五和町教育委員会

 幕末時代の勤皇家・38歳の頃、京都に上り、志士高山彦九郎と交わりを結ぶ。
 彦九郎が幕吏に追われ長崎に来るや、道俊も之と行を共にし天草に逃れて、御領村に潜伏した。後、彦九郎は久留米に脱出したが、幕吏の追及厳しく遂に49歳で自刃。道俊は病のため御領に留まり、医を業として10年を経たが、彦九郎の孤忠を思う心抑えがたく、享和2年(1802)初夏、独り天草を立って彦九郎の墓前に至り、自ら墓穴を掘って自刃して果てた。享年73歳。10年後、御領組大庄屋長岡五郎左衛門ら、ひそかに道俊の遺骸を収容しこの地に改葬したという。

≪説明≫

 西道俊の墓は、御領・芳證寺の横の道を入り、数百メートル行った共同墓地の中にある。
 案内板も、道に背を向けており、かつ墓石によってさえぎられているので、道路からは容易に分からない。
 できれば、単柱の案内でも設置していただけたらと思う。
 

 
  ≪西道俊について≫ 
    <五和町郷土史第一輯>
      著者・山腰雅春 
      発行所五和町役場
      昭和42年3月1日発行、昭和61年7月復刻  より

 天性剛宕(とう)にして気概あり、明和四年三十八才の頃家職を弟にたくして決然上京、勤王の志士と往来して大志を伸ぶ。特に高山彦九郎正之と相知り、刎頸の交わりを結ぶ。安永八年、彦九郎長崎に来たりて旧交をあたためたが、寛政五年春中山正親町両公郷幽閉事件に奔走する彦九郎が幕吏に追われて長崎へ来るや、道俊も之と行動を共にし、海路上京せんとしたが、果たさず虎口を脱して天草に逃れ、一時富岡池袋の友田中春秋亭隠宅に身を寄せた。
 しかしここも富岡陣屋近傍のため落ち着くを得ず、出でて御領村に潜伏す。
 然るにこの間の逃避行六十四才の道俊の老体にこたえたものか病床に倒れて立つ能わず、彦九郎附き切り介抱、やがて長崎より子息松仙来るを待ち、薪船に身を潜めて天草より久留米に脱出、然るに幕吏の追求いよいよ急に流石の彦九郎も進退きわまり、天を仰いで嘆息、遂に寛政五年六月二十七日四十七才にして久留米なる友人森嘉膳宅な自刃し果てた。
 道俊は病を養って松仙と共に御領に留まったが、共に勤王を語るべき友もなく、僅かに大庄屋長岡五郎左衛門等と交わり医を業として十年を経たが、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともしがたく、享和二年初夏、飄然として天草を立ち出で久留米なる森嘉膳宅に向かった。こみに於いて故人の壮烈なる屠腹の様を聞くにつけても涙は更に新たに、泉下の友を慕う念やみがたく、五月二日自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘って自刃し果てた。年七十三、辞世に曰く

 欲追故人跡 孤剣去飄然
 吾志同誰語 青山一片烟

 森嘉膳いたく彼が微衰をあわれみ、極秘の中に彦九郎の墓畔に葬る。今残る高さ二尺ばかりの瓢箪墓がそれである。里人酒を供えれば如何なる眼病も治ると伝え、絶えず墓前に大小徳利の林立するを見ると言う。

 
≪天草近代年譜≫より

寛政五年(1793) 5.--

 九州遊説中の高山彦九郎、京都の急変に赴かんとして、豊前小倉に到る。
 しかし、同地海峡は警戒が厳しく、渡ることができず、途を返して久留米の森嘉膳に事情を告げ、更に長崎へ出て、盟友西道俊と会い、ともに謀りをめぐらせ海路より上洛せんとする。
 だが却ってその筋の嫌疑に掛り、1日道俊と同伴の途中を追跡されるが、辛くも虎口を脱し、直ちに天草に逃避する。
 一旦富岡元袋の知友田中春秋亭隠宅に身を寄せるが、陣屋許なので落ち着くことを得ず、御領村へ潜伏する。
 その遁走の途中、道俊(64歳)は老体に痛く堪えたためか、或は負傷のためか、御領村到着早々病床に倒れ、立つ事できず、彦九郎つききりで看病する。

寛政五年(1793) 6.--

 この月初旬、道俊が病んだとの秘方に驚いて、嗣子松仙(29歳)が長崎より馳せ参じて枕頭に侍す。
 松仙にはともに来るべきであった妻の片影はなく、わずかに3歳の女児を伴うのみ。
 彦九郎はこれに後事を託し、心急ぐまま薪船に身を潜めて天草を脱出、単身久留米へ向かう。

寛政五年(1793) 6.27

 高山彦九郎正之、久留米の森嘉膳宅に至ったが、時既に幕吏の取り締まり厳しく、なんら手の施しようもなく、苦悩のうちに過すこと数日、遂に義憤が破裂、この日、同家において狂人を装って自刃する。(47歳)

享和二年(1802) 4.--

 病を得てから、嗣子松仙とともに、御領村にそのまま隠棲し、医業で10年間に及んだ勤皇の志士、西道俊、思うところありこの月下旬、ひとりで飄然と天草を出る。
 一路亡き友高山彦九郎が眠る久留米の地に向かう。


享和二年(1802) 5.2

勤王家西道俊、高山彦九郎の墓前において、屠腹して果てる。(72歳)
 遺命により森嘉膳私かに彦九郎墓碑の傍らにこれを葬る。 

  欲追故人迹 孤剣去飄然
  吾志同誰語 青山一片烟

享和三年(1803) 6.--

 高山彦九郎の遺子義助、父自刃後10年目にあたり展墓のために久留米に来る。
 樺島石梁の家に留まること一旬。
 
 
※展墓=墓参り

文化九年(この歳)

 勤王の志士西道俊自刃10年後、生前特に親交が篤かった御領組大庄屋長岡五郎左衛門は、道俊の子松仙と久留米に入り、その地に住む森嘉膳と相計り、夜中密かに道俊の墓を発き、遺骸を収容して持ち帰り、御領村野首の林間に改葬する。

 
  <管理人の責に於いて、現代文に改めています>

 ≪参考図書≫

『西 道仙』 長島俊一著・長崎文献社刊・平成16年2月23日発行
   ちなみに、西道仙は、西道俊の孫に当たり、長崎で医院兼私塾を開く。
   また、当代一の医師と同時に文化人であり、多くの事跡を残した。

  
この書には、道俊についてもかなり詳しく記述されている。

『五和町郷土史第一輯』山腰雅春著・ 発行所五和町役場・
            昭和42年3月1日発行、昭和61年7月復刻