天草流人帖


 

天草流人史

西暦 元号 月日 内       容 預り 島抜け
1655 明暦 1 この年   長崎奉行所差し廻しの流人、天草に流される
 これが天草最初の流人
1692 元禄 5 10/27   高野山僧配流
 高野山争論で、行人627人が流刑になる
 天草には140人・内2人は大坂にて、6人は富岡にて死去
 預け先・富岡町7人、志岐組8人、井手組8人、御領組15人、本戸組20人、栖本組20人、
      大矢野組18人、砥岐組8人、久玉組7人、一町田組11人、大江組10人
      (村名は不明)
 天草以外は、五島へ125人、隠岐へ155人
(132)
1700 元禄 13 この年   高野山僧赦免
 その間多数死亡
  (赦免・死亡の詳細不明)
1702 元禄 15 閏8/-   江戸無宿の流人55名、富岡着船それぞれ村預けとなる 55
1703 元禄 16 2/6   赤穂浪士の遺族、男子15歳以上を遠島処置
 この関係者は天草はなし
 江戸無宿流人45人富岡着船、各村預け 
45
1704 宝永 1 この年   富岡町預かりの豊後流人太兵衛、富岡米蔵より1俵を盗み取り、伺いをたてて、断罪に処せられる
1705 宝永 2 この年   砥岐組7ヶ村の男女144人、薩摩伊佐郡菱刈に移住 
1709 宝永 6 2/30   赤穂義士の遺族流罪赦免 
1710 宝永 7 1/10    江戸流人40人、大赦(家宣将軍宣下)により赦免帰国
1720 享保 5   寛文四年~正徳六年までに天草島に流された流人 129人
 ※1 注釈あり
1724 享保 9 閏4/16
  江戸送りの流人50人(内2人は途中で死亡)、村預け
 流人一人当たり飯米5升宛て下附ある 
48
1735 享保 20 2/15   青木昆陽、遠島流罪の者が食糧難により餓死する者多く有るを憂い、蕃藷考を著わし、幕府に提言する 
1742 寛保 2 この年   御定書百箇条制定
 天草への流人は、京、大坂、西国、中国に限定
1794 寛政 6   志岐村勘七隠岐へ島流しになる
1799 寛政 11 9/10   寛政八年に起きた西目筋百姓騒ぎ立ての採決あり
 遠島2名(隠岐)、一町田村弥七、白木河内村兵右衛門
 ほかに重追放、中追放、軽追放あり
1801 享和 1 6/-   天草流人配島が享保九年以来ほとんど中絶になっていたが、これより再び流人が送られるとの達しが、長崎奉行所よりある
 今後は、京坂伏見奉行所仕置きの遠島者で、大坂表より雇船にて差し送られるとの事 
1803 享和 3 6/27
  大坂表より、流人8人送られる
 預かり先は、志岐組・大吉、井手組・亀松、御領組・藤吉、本戸組・榮助、栖本組・小兵衛、大矢野組・長右衛門、一町田組・丑之助、大江組・利八 
8
1808 文化 5 閏6/9
  京阪より差し送りの流人9名来島
 冨岡町・真言宗慈笛、御領組(佐伊津)・エタ三右衛門54、本戸組(小宮地村)無宿甚吉35、栖本組(上津浦村)・近江屋五兵衛39、大矢野組(登立村)・無宿岩吉31、砥岐組(御所浦村)・無宿藤吉33、久玉組(魚貫村)・仁兵衛妻いさ32、一町田組(白木河内村)・日蓮僧日州39、大江組(大江村)・百姓七蔵42
9
1810 文化 7 8/5   大坂表より流人11人、肥前五島へ差し送る旨の浦触れ到来 
1813 文化 10 8/10   大坂表差し遣わしの流人10人着島
 組々1人宛村預けとなる 
10
1813 文化 10 1/8   重ねて旅人改め方を厳しくすべく、流人も濫りに他出させぬよう達し有り
1814 文化 11 10/2   先に逃亡未遂に及んでいた坂瀬川村預かりの流人市松、又も手鎖のまま行方不明になる。そのため村々へ人相書き廻り、浦々の船場改めを厳しくさせる 1
1815 文化 12 10/13   手配中の坂瀬川預かり流人市松、京都町奉行所手により逮捕される
 市松の白状によれば、一町田村某の船を雇い、銭380文で姫浦村より大矢野に渡り、肥後領に入ったことが判明
 このため、郡中村役の不行き届きという事で、以後大庄屋庄屋は時々組内村内を見回り、無往来の出入りを厳重に取り締まるべくまた、大来手形は大庄屋に限り発行出来、庄屋にはその権限がないにも関わらず発行されていも事があり、戒告される
1817 文化 14 4/20   遠見番、山方役、会所詰大庄屋、町役人等役所へ召し出し
 隠岐に差置きの流人50人程が同国御用船を奪い取り、大挙島抜けした事件に関して
 この内30余人は召捕られたが、その他は近国に流浪散在している
 既に長崎辺りにも入り込んだ様子に付き、天草郡にも入り込んでいるかもしれない
 そのため、遠見番、山方役は心して最寄りを巡回し、胡乱なる旅人等は郡外へ追い立てるべしと命じられる
1818 文政 1 7/-   大坂より差し廻しの流人提灯の松五郎、着島し中田村預けとなる 1
1818 文政 1 9/21   同上松五郎、この日居村に居らず行方不明となる。そのため浦々渡海口の舟止めを命じ、極力探索する 1
1824 文政 7 7/11   亀浦村預かりの流人無宿音吉31、この日居村に居らず行方不明となり、渡海口厳重に取り糺し舟止めするべく急触れが出る 1
1828 文政 11 7/24   夕刻、京大坂差し送りの流人10名足らず富岡着船
 くじにて組々村々へ割り当てられる
 二条吉五、楠甫村預けとなる
10
1828 文政 11 7/-   関東よりも天草島へ流人差し送りに差し支え無きか問い合わせが、江戸勘定所より到来
 村々で協議の結果、差し支えありと上申断る
1829 文政 12 1/22   亀浦村預かりの流人無宿加茂鹿の於登吉、この朝より村に居らず、渡海口舟止めして村々探索にかかる  1
1830 天保 1 3/6   天草島への江戸表からの差し送りについて、断りをしたものの、その後何らの下知がない
 そのため、長崎元役所江戸詰め連が再々評定所に罷り出て、掛り留役宛てに内々伺いする
 結果、天草は、他所へ渡海が簡単にできるため、流人の島としては不適正・そのためこれまでもたびたび島抜けが発生し、そのたび採りおされられて重き仕置きに成るのみか、流人預かりの村々も無実の咎めがある
 などの断りの理由を申し立てた結果、聞き届けられ、今後関東からの流人は、遣わされない旨の内達がある
1830 天保 1 閏3/2   村々預かり流人の所在有無を調査上申させる
1831 天保 2 3/14   御領村預かりの流人無出極玩味の虎吉、村内差し連れのどさくさに紛れ島抜けに及ぶ 1
1831 天保 2 3/-   流人たちが手慣れた稼ぎがない旨申し立て、村方より不相応の食物を請取、遊び暮らしている。
 近年不作うち続百姓さえ食糧難にある折柄、流人たちの仕業はあるまじきことである。
 そのため流人たちに、申し聞かし、日雇いや何かの仕事に就かせるよう流人取り締まりを厳しくさせる。
 但し、病身の分だけには、窮民食用黍、切り芋の類を以って露命を凌がせる手配すること
1832 天保 3 6/15   定舜上人天草配流
 京師華頂宮家住侶権大僧都定舜上人、同輩の妬み讒言により蹉跌退殿し、京都東奉行深谷遠江守の裁断により、西海の孤島天草島へ配流と罪科が決まり、この日京を後に伏見に下り、淀川を舟にて大阪送りとなる。
 大坂よりは、他の遠島流人20名とともに、雇船(伊勢丸)に乗り込み、7月の初旬同所出船、一路西へ西へと送られる
41
1832 天保 3 7/10   大坂差し送りの流人20名、この日富岡着船、役所引き渡しの上、組々2名宛て村預かりに振り当てられる
1832 天保 3
8/26
  京大坂差し送りの流人21名(定舜上人含む)、富岡湊着、役所に引き渡される
 富岡町1名、外20名は組々2名宛てに割り当てられ、それぞれ村預けとなる
21
1832 天保 3 12/17   今留村預かりの流人、無宿高砂の音次郎、この日朝方より村に居らず、島抜けに及ぶ 1
1833 天保 4 5/23   合津村預かりの流人、無宿充道、島抜け 1
1833 天保 4 6/17   元宮野河内村百姓某、遠島配流先にて島ぬけに及び、当郡へ立ち戻りし模様あるにより、村々とも内偵し、いたならば召し捕え差し出すようにとの回達がある
1834 天保 5 1/3   荒河内村預かりの流人、無宿樽屋の音吉、島抜け 1
1835 天保 6 9/6  とっくり墓
 枦宇土村預かり江戸出生の流人重八、この日病没、字平の墓地に葬られる
 同人は多少教養があり、同村庄屋の下使いとして重宝がられていた
 また、同人は性来深く酒を愛せるを以って、時の庄屋小林和伸太、高さ2尺5寸余の徳利型石碑を建て、東水寂流信士なる碑銘を与えて彼の冥福を祈る
 (この墓碑は現存する)
1836 天保 7 6/24   大坂差し送りの流人2名、この日富岡着、役所に引き渡される
 大江村預け・無宿安川の卯之助30、亀浦村預け・無宿三木の與吉19
2
1836 天保 7 7/5   同上の二人、共謀して居村を抜け出し、島抜け 1
1839 天保 10 8/13   今村に預かりの流人、無宿馬方の摩津之助、島抜け 1
1839 天保 10 11/2   姫浦村に預かりの流人、無宿屋敷者の梅吉、島抜け 1
1839 天保 10 11/27   御領村預かりの流人、無宿石津の廣吉、島抜け 1
1840 天保 11 9/-
  大坂表差し送りの流人40人着島
 一組4人宛て割り当てられる
 大江組は、崎津村・仁吉、今留村・國松、小田床村・重吉、福連木村・庄兵衛
40
1840 天保 11 9/-   郡中大庄屋、庄屋が富岡会所に集まり評議、村々流人取り締まりを現にすべきことを申し合わせる
1841 天保 12 3/18   下河内村預かりの流人、無宿江戸の岩吉島抜け 1
1841 天保 12 11/29   打田村預かりの流人、無宿辰之助34、島抜け 1
1842 天保 13 1/5   早浦村預かりの流人、無宿エタ壱貫の兼松、島抜け 1
1842 天保 13 2/21   棚底村預かりの流人病死・掛りの山方役検分、役所へ届ける
1842 天保 13 9/20   早浦村預かりの流人、石田屋百蔵50、島抜け 1
1842 天保 13 9/28   登立村預かりの流人、無宿岡岩の保次郎22、島抜け 1
1842 天保 13 8/23
  野口瀬兵衛撲殺事件
 益田村預かりの流人、京都者野口瀬兵衛秀一、兼ねて酒癖悪く、この夜もまた酒乱に及んだため、同村百姓ら申し合わせ、遂に同人を撲殺、死骸は海中に投じるの突発事あり
1842 天保 13 9/6   京都表杉本左近より、益田村預かりの野口瀬兵衛渡しの渋紙包1個、大坂帰りの順幸丸に託され富岡着、山方役江間新五右衛門へ届を依頼する
 江間より一町田定宿富田屋林之丞に渡し、益田村庄屋池田為右衛門宛てに送る。もっとも当人は既に殺害されていた
1842 天保 13 10/11   野口瀬兵衛殺害事件に付き、加害者召し捕えのため、陣屋詰役金井八郎、樋口茂八郎の両名、山方役江間新五右衛門、遠見番丹羽牧之助、町年寄岡部佐藤次、町庄屋荒木佐馬吉、小田床村庄屋伊野亀一など、非人10人を召し連れ、富岡出船
 舟路にて下田村着岸、益田村に乗り込み、頭取百姓兼右衛門、俊太外21人を召し取り、翌12日富岡へ引き上げる
1843 天保 14 9/-   この月初めに、京大坂差し送りの流人30人余、富岡着船、組々に配分し、それぞれ村預けとなる  30
1843 天保 14 閏9/10   志岐村預かりの流人、無宿堀江の清吉40、島抜け 1
1843 天保 14 12/16   上津深江村預かりの流人、王蔵院住持理道33、島抜け 1
1844 弘化 1 8/14   京大坂堺差し送りの流人35名、薩摩島へ遣わす旨の浦触れが肥前樺島より到来 郡中組継ぎの上、18日宇土郡浦へ差し繋ぐ
1845 弘化 2 1/-   富岡役所、郡中流人取り締まりの緩みを戒告する触れを出す
1846 弘化 3 5/20   佐伊津村預かりの流人、無宿御茶山の音吉、島抜け 1
1846 弘化 3 11/11   宮田村預かりの流人、樽番の吉松、島抜け 1
1847 弘化 4 7/8   京大坂より差し送りの流人25人、大坂雇船にて富岡着船、陣屋へ引き渡しの上、組に割り当て、それぞれ村預けとなる 25
1847 弘化 4 7/20   志柿村預かりの流人、無宿堺の喜兵衛、乱暴一件にて、預かり無き村へと命ぜられ、福連木村へ預け替えとなる
1848 嘉永 1 1/8   合津村預かりの流人、かつ27、島抜け 1
1848 嘉永 1 6/18   崎津村預かりの流人、甚吉36、島抜け 1
1848 嘉永 1 この年   支配替りを機に、天草を遠島地から除外する願いを上申するも、却下される
1849 嘉永 2 2/1   下内野預かりの流人無宿幸七36島抜け 1
1849 嘉永 2 2/2   弘化大一揆(弘化4年)の罪科で遠島13名(遠島先不明)
 主な処刑者
  獄門2名、古江村庄屋永田隆三郎、河内村時右衛門
  死罪1名、馬場村七蔵
  遠島13名、御領村庄右衛門、同村辰右衛門、内田村銅助、同村道助、同村甚右衛門、
         古江村佐次右衛門、同村蔵右衛門、同村與平次、同村為八、佐伊津村卯作、
         同村作之丞、本戸馬場村広吉(但し牢死)、本村五八
  その他、中追放12名、江戸払い2名、所払い9名、など
1849 嘉永 2 2/-   弘化一揆での遠島者大坂へ送られる・崎津付遠見番新井羽郎次警護役として付き添う
1849 嘉永 2 閏4/14   町山口村預かりの流人、弥吉15、島抜け 1
1849 嘉永 2 閏4/16   大多尾村より小島子村へ預け替え流人、大多尾港より楠浦大門掛りへ渡船の途中溺死、死体上がらず、沿岸村々それぞれ捜索する
1849 嘉永 2 5/24   御領村預かりの無宿亥治郎2、富岡入牢中の無宿及び浪人2人に誘われ、島抜けを計る 1
1849 嘉永 2 5/27   同上3人組、本村鶴で里人に発見され、さらに山中に逃げ込む
 最寄りの村を早速手配し、山中近郷を探索中、浪人一人は捕えるも、他の二人は取り逃がす
1849 嘉永 2 6/13   同上二人、阿村より姫浦村への山越しで、遂に二人を捕える
1851 嘉永 4 3/11   志柿村預かりの流人、喜兵衛38、島抜け 1
1851 嘉永 4 6/29   ※2 下河内村預かりの流人、亀吉27、島抜け  1
1852 嘉永 5 2/2   崎津村預かりの流人某、盗賊して捕えられ、長々入牢していたが、死罪の決済があり、この日早朝処刑される 7
1852 嘉永 5 7/19   大坂差し送りの流人7名、この日七ツ時富岡着船
 役所引き渡しの上、それぞれ村預けとなる
1852 嘉永 5 9/-   村々預けの流人やその他入込の旅人となど、胡乱者の取締を厳達され、掛かり役の大庄屋庄屋連が郡中を手分けして廻村する
1853 嘉永 6 1/19   平床村預かりの流人、為吉、島抜け 1
1853 嘉永 6 4/2   内田村預かりの流人、仙吉52、島抜け 1
1855 安政 2 2/-   当郡遠島地除外願い三度出願するも、却下される
 当時、郡中預かりの流人76人
1855 安政 2 8/13   ※2 下河内村預かりの流人、亀吉、島抜け 1
1856 安政 3 3/3   棚底村預かりの流人、九兵衛29、島抜け 1
1857 安政 4 6/15   京大坂堺より差し送りの流人8人富岡着船
 陣屋に引き渡され、会所にて村々預けとなる
8
1857 安政 4 7/19   広瀬村預かりの流人、乙吉、島抜け 1
1857 安政 4 11/15   大江村預かりの流人、某、島抜け 1
1858 安政 5 1/17   都呂々預かりの流人、善七53、島抜け 1
1858 安政 5 5/-   京大坂の流人6名、薩摩島へ送られる旨の浦触到来
1860 万延 1 5/2   二江村預かりの流人。與三郎44、島抜け 1
1862 文久 2 3/8   本村預かりの流人、鉄蔵33、島抜け 1
1863 文久 3 3/22   今富村預かりの流人、市兵衛、島抜け 1
1865 慶応 1 9/10   御所浦村預かりの流人、音吉37、島抜け  1
1868 明治 2/5   食場村預かりの流人重次郎39、島抜け 1
1868 明治 9/8   明治と改元、旧幕時代の流罪人赦免
1870 明治 3   流謫地を北海道に限る
1908 明治 41   流刑を完全廃止
  360 40

 ≪資料≫  『天草近代年譜』 松田唯雄著
      『流人と非人』 森永種雄著 岩波新書 
      『天草年表事録』 上田宜珍箸
 
 ※1
   139人のその後の内訳
  (1) 赦免を受けた者    63人
  (2) 死亡した者      54人
  (3) 島抜けした者      1人
  (4) 享保五年現在在島者   22人
  (5) 出身地   江戸 108人  長崎 8人  天草 7人  美作 7人 
            日向   3人  豊後 3人  讃岐 2人  豊前 1人

 ※2 嘉永4年と安政2年に同一村、同一名があり、資料の重複と思われる
 
 ≪参考≫

 明治に入っても流罪は廃止されなかった。ただし、流罪地は北海道に限定された。流人は監獄に収容され、北海道開拓の強制労働を課せられた。
 また、特異な例として、浦上崩れがある。この事件は、長崎浦上に於いて、多数の隠れキリシタンが発覚したもので、明治政府は信徒の中心人物114名を捕縛し、津和野、萩、福山へ移送され、、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。
最終的に流罪が廃止されたのは、明治41年(1908)の刑法制定で刑務所が整備されてからである。
  〈ウィキペディア〉
 尚、幕末天草に残っていた流人たちは、どうなったのだろうか。