キリシタン


侍どんの墓               天草市五和町二江
                            
 

 
  《現地案内板》

 通称「侍どんの墓」(キリシタン墓碑群)    
  五和町教育委員会(旧) 五和まちづくり協議会
 
(内容は新旧同じ)

 当地は中世末、天草五人衆の一人の志岐氏の領内となっていて、天草で最初にキリシタンが伝わった地方であった。
 俗に「侍どんの墓」とよばれるこの墓も、当時武士でありキリシタン信者であった者の墓と思われる。二江には、文禄の役から帰国した志岐城代、日比屋了荷(ビアンテ)が組親となって、文禄五年(1596)キリスト教の「聖母信心会」がつくられた記録があるし、元和三年(1617)には、信者代表として松田杢左衛門(パウロ)、宮崎権兵衛(リアン)、茂島与三兵衛(パウロ)等がいた確かな記録もある。
 「伊豆国無縁法界等」「南無観世音菩薩」「三界萬霊等(2基)」「宝暦十年」などの記銘もあるが、「伊豆国無縁法界等」とあるのは、典型的なカマボコ型のキリシタン墓碑である。その他、無記名とみられるキリシタン墓碑数基が以上記銘塔4基の台座となっている。
 
 

 2023年11月の秋晴れの穏やかな日、「侍どんの墓」を見に行った。
 侍どんの“どん”とは天草弁?で、“様”や“殿”という意味である。つまり、侍様の墓或いは侍殿という意味である。
 この墓碑群は、廃校となった二江小学校及び東雲寺の南側の山中にある。
 入り口の案内板も無く、探すのに大変苦労した。一応道はあるが、草木が茂っており、やや歩くのに苦労した。道わきに電柱があり、電線が通っているので、その電線路に沿って登ると、やがて巨大な貯水タンクが現れる。この墓は、貯水槽からイノシシによって荒らされた元畑地と思われる土地を登ると、樹林の中に、見えて来る。樹林の手前には、ミカンや栗の果樹があり、本来なら畑として利用されていたものと思われる。
 このような、荒れ地にあるので、訪れる人も無いようで、墓石にはツタが絡まっていた。写真はそのツタを除去した後である。

 この墓(群)は、もともとこのように1カ所にまとめられて建てられていたものでなく、この周辺に散在していたという。それを第二次大戦中に、食糧確保のために、兵隊が山林を畑地に開墾する際に、1カ所に纏めたという。
 したがって、仏式の塔とキリスト教の墓石が纏められている。 積み上げられている平型の石は、全て正式のキリシタン墓石であったと思われる。
 また、この墓碑は、旧五和町の文化財に指定されていたようだが、合併後天草市の指定文化財にはなっていない。 したがって、五和まちづくり協議会の案内板はあるが、入口の方向案内板も無く、荒れ果てた状態となっている。


この侍どんの墓については、資料もほとんどないのでよく分からないところもあるが、キリシタン研究家の高田重孝氏が、ウエブページで説明しているので、引用する。
 
「天草下島・北東地区・御領周辺のキリシタン墓碑について」

  二江字上久保にあるキリシタン墓碑群 〔通称・侍どんの墓〕と二江教会跡地「侍どんの墓 (キリシタン墓碑群)」 (二江字上久保)

『旧・二江小学校南側の山腹に、通称「侍どんの墓」がある。「伊豆之国無縁法界之位」・「南無観世音菩薩」・「三界万霊等」(二基)。「宝暦十年(1760)」などの記銘もあるが、「伊豆国無縁法界等」とあるのは、典型的なカマボコ型キリシタン墓碑である。これ等の墓碑は、横の畑(現在杉山)にあったもので、無記名のキリシタン墓碑10数基が、記銘塔4基の台座として積み重ねられている。元和3年(1617)、徳川幕府のキリシタン弾圧悪宣伝に対抗して、スペインに送られた天草下島キリシタン代表34名の証言書(コウロス徴収文書)の中に、証言者として二会村(二江村)松田杢左衛門(パウロ)の名が見られる。(内野村3名、二江村3名)因みに、この墓地の管理者は二江の松田家である。』
 *『五和の文化財を訪ねて・五和町史跡文化財案内』五和町教育委員会 平成12年

 故山本繁氏によると、二江の「侍どんの墓」墓碑群は元々キリシタン墓地であった敷地を第2次大戦前の食糧確保のために陸軍が全てのキリシタン墓碑を現在の道端に積み上げ開墾 して芋や野菜を作っていたとのこと。元々は二江地区のキリシタン共同墓地だつたと言われていた。天草島原の乱時の二江村庄屋はコーロス徴収文書に記載されている松田杢左衛門であり、現在のこの墓地の管理者である二江の松田家は杢衛門の子孫であり、同家から司祭になった松田ミゲル神父を輩出している。

   
また、郷土史家の故鶴田文史氏が『天草の歴史文化探訪』天草文化出版社 で、侍どんの墓について記しているので、引用する。

『侍どんの墓』
 侍どんの墓と言われているキリシタン墓碑群へ行った。ここは海抜70メートルぐらいの山の中腹に位する。段々畑の片隅にあまた積み重ねてあるが、それが″侍どんの墓″と呼ばれている。元は畑地が墓地で、一つずつ個別にあったものを終戦直後の増産時期之位」と記銘してある。二番目のは長方型の石碑で「南無観世音書菩薩」とある。三番目のは観音像を上方に刻んだ石碑で「三界万霊」「宝暦七辰三月日」とあり、四番目のは自然石に「三界万霊」とある。このなかで一番目のは明らかなキリシタン墓碑で、後の時期にほかのことを記銘したものと見られる。二、三、四番目のはキリシタン墓碑ではなく、この地に寄せ集めるときほかから混じったものであろう。ところが、そのほかに積み重ねたあまたの石を見ると、薄カマボコ型のが三基、凸型カマボコ型が二基あり、ほか約50基は板碑式長方型のものである。以上ほとんどがいわゆるキリシタン墓碑とみられるものである。
 この“侍どんの墓”は元鉄砲鍛冶であった松田家の子孫が管理してきたようで、松田家の先祖の墓とも言われている。「侍どんの墓」という場合、松田家の祖先が武士だつたことから呼ばれてきたかもしれない。しかし、松田家がキリシタン武士だったかは現在不明であるが可能性は十分にある。どちらにしてもその墓碑群のほとんどが形態からしてキリシタン墓碑群であることに相違ないようである。残念なことは、これらの墓碑が元の位置から移されたことだが、しかし、これからでも一つ一つを並べてみて復元に近くすることは必要なことである。なお近くの東雲寺の墓地にあるカマボコ型のキリシタン墓碑らしいのを見たが、これらの墓碑がキリシタン墓碑であるかは当の墓碑が一番良く知っている。この日も早崎海峡の向こうに口之津、雲仙岳の素晴らしい眺めをこの墓碑と共に見ることができた。
 

 
[参考資料]

 『九州のキリシタン墓碑』 荒木栄一著 出島出版  

天草下島・北東地区・御領周辺のキリシタン墓碑について|髙田重孝 (note.com)