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散歩道

貧しい島から豊かな島へ…

 天草は江戸時代から新田開拓が始まり、美田が結構多い。近年の圃場整備で、耕地は整然と整備され、天草が貧しい島だとは思えない。収穫期ともなると黄金色に稔った稲穂が、豊かな島という印象さえ与える。
 しかし、天草・島原の乱の資料などを見ると、天草は貧しい島であったという。乱当時、畑作物、海産物を合わせても21千石。今の生産高を石高に換算したら何石になるのだろうか。
 私は職業柄、山の中を歩くことが多い。その山の中でよく目にすることであるが、今では杉やヒノキ林になっている山に石垣を築いてある。何のための石垣なのか。城があったのだろうか。とも思ったが、どうやらそうでもないらしい。実は田んぼの跡なのだ。平地がなかった天草で、田んぼを作るとすれば、先に述べたように海を干拓するか、山に段々畑を作るしか手段がなかった。機械力のない時代、先祖たちはどんなに苦労して、この石垣を築いたのだろうか。石垣を築くだけではない。木の根を掘り、平らにして水を引く。圃場作りだけでも並大抵の苦労ではなかったはずだ。
 
石垣田がいつの時代にできたのか定かでないが、江戸時代にもかなりの田が開拓されたのではないかと思う。

 その結果、収穫物が全部自分のものになるならいいが、収穫の大部分は年貢として、お上に取られる。なんとも、割に合わない仕事をしてきたのが、我々の先人たちだ。
 現在も税金は結構高いが、昔の年貢とは比較にならない。天草・島原の乱はキリシタンの乱と言われているが、実際は苛斂誅求・生き地獄に追い込まれた百姓たちのやむにやまれぬ一揆である。
 実り豊かな今の天草からは想像も出来ないが。しかし、今日、米は作るなという政治のために、美田が次々と宅地に変えられている。このし返しがいつの日か、先祖様のたたりとしてあるようでならない。