城址索引へ



本戸城址  天草市 城山公園

 本渡は天草の中心です。天草2市8町が合併して天草市になっても、当然のごとく市役所の位置は本渡と決まりました。
 しかし、歴史的に見て、本渡が昔から中心であったわけではありません。ついこの間(幕末)まで、天草の首都は富岡でした。
 では、なぜ本渡が天草の首都でなかったのでしょうか。
 答えは明らかです。それは本渡の海は遠浅で、大きな船が、着けられなかったからだそうです。
 今でこそ、道路網が発達し、道路が交通の主な手段ですが、昔は海路が主役でした。当然船が入らないところは、首都となりえなかったわけである。

 しかし、昔は農業がすべての時代。やはり、農業に適した洲の本渡はやがて、首都となりえる下地があったようです。

本戸城址

 鎌倉時代の初期早くも天草下島に勢力を張って幕府から地頭職に補せられた天草氏の城跡である。のち鎌倉末期から室町後期に至るまで本戸の地は志岐氏の勢力下に入り天草氏の嫡流も絶えた。
 かわって天草氏の支流たる河内浦氏が河浦町を中心に発展し天草氏と称して享禄年間(1530年代)には本戸を回復した。かくて構えた城が現在の城山である。
 ただしここ千人塚は出丸跡、切支丹館は二の丸跡であり本丸跡は西方に連なる高台と推定されている。
  本渡市
  本渡観光協会




史跡 本戸城

本戸城は享禄年間天草尚種が築城す。
 のち天草伊豆守種元の世、城内に教会を建て、キリスト教を伝道、天正17年、年小西・加藤の攻撃を受け、娘子軍と共に1300余名は城と運命をともにす。
 天草四郎銅像建立を記念してこれを建てる

昭和50331
 建立者 天草四郎銅像建立世話人
 題字  本渡市長 横山寛人
 企画  代表世話人 吉田一丸
           田中沢治

                広田栄亀
               佐々木睦夫
           土黒 繁

 事務局       宗像正敏
           原田次男


註》享禄年間 : 1528年〜1531年 室町時代後期 
  
天正17 : 1589年 秀吉が全国統一を成し遂げた頃

本戸城跡。
現在殉教公園。
手前千人塚、後の赤屋根はかつてのキリシタン館。
本戸城最後の城主、天草種元の碑。
子孫にて建立。