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富岡城址  苓北町富岡



 富岡城は、中世城時代・寺沢城時代・山崎拡張城時代・戸田破城後の陣屋(代官所)時代の四期に分けて考えられる。
 寺沢時代までの城域は、現袋池の北辺に限られる。山崎時代、百闢y手をつくり大手門を堀切まで前進させた。
 遺構としては、本丸、二の丸、三の丸の石垣城の前後2箇所の古井戸・中門枡形百間・土手・新大手及び堀切石垣等がわりによく原形を保っている。
  苓北町教育委員会
  苓北町文化財保護委員会



 
 

富岡城について

 富岡城は慶長六年(1601)に天草の領主となった肥前唐津藩の寺沢広高によって築かれました。その後、山崎家冶の私領時代、鈴木重成・重辰代官の天領時代を経て、戸田忠昌の私領時代に城が壊されました。それ以後は、明治まで天領として三の丸跡に代官所がおかれました。
 富岡城には、城歴の中で、特筆すべきことがあります。寛永14年(1637)に起こった『天草・島原の乱』に巻き込まれ、幕府側拠点として、一揆勢の攻撃目標になったのです。唐津藩の必死の守りで落城は免れましたが、このことが結果として、乱の早期終結に繋がり、その後の徳川政権の安定に大きく寄与する事になりました。乱の鎮圧後に、築城の名手と謳われた山崎氏が、天草に送りこまれ、城の大規模修理と縄張り拡大を行い、富岡半島を島に見立て要塞を築きました。それは幕府が対面保持と、外洋に面する富岡城を、水面下で「国際戦上の守りの要」として位置付けていたことに外なりません。この時期、幕府は、鎖国政策を進めていましたが、海外列強の侵略を恐れていました.
 時代が下った寛文10年(1670)の「戸田氏の破城は、徳川政権が完全に安定した証しとして、さらには、平和の象徴としての施策であったと推察されます。この時期になると、外交面での危機も回避され、海外にも目を向けた「戦闘城としての富岡城」の必要性が失われたと思われます。戸田氏の破城の裏には、幕府からの示唆があったものと思われます。事実、『富岡城破城の噂話(戸田文書)』には、「如何なる幕府政策の変化に因りてか天草に在る僅かに七年。折角再築せし城郭を毀ちて関東に復帰する」との記述があります。
  平成11年8月
  熊本県天草郡苓北町教育委員会





復元が進む
 富岡城址



富岡城址
 富岡城は慶長8年、唐津藩主、寺沢志摩守広高が築城したものです。
 寛永14年に起こった島原の乱では、ここに唐津軍1500人がろう城、天草四郎時貞が率いるキリシタン一揆勢12000人が再三にわたって攻めたてましたが落城しませんでした。
 寛永15年、山崎甲斐守家冶は城を更に堅固にするため百闢y手を築き、大手門を前進させるなど城の修築をおこないました.
 寛文10年、戸田伊賀守忠昌は「天草は永久天領たるべき地」と幕府に進言して、本丸、二の丸を破却しました。
 その後、明治6年までの200年間は代官所が設けられたところです。



大手門跡 富岡城

 寛永年間山崎甲斐守家治が富岡城を修復したとき、城地を拡げ大手門をここまで前進させた。大手門の前は東西を繁じ堀を作り外堀をしたといわれ、大手橋は板橋であった。この板橋は第二次天領時代文化9(1812)石橋に架け替えたと伝えられている



大手門跡