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水稲


記念跳石  天草市亀場町亀川  

 亀川の河畔、草積橋の下流数十メートルのところに、小さな記念碑がガードレールの間に建っている。
刻まれている碑文をみると、
 「大正十一年ハ旱魃ノ為メ苗ノ移植時期節上リタルモ適当ニ肥料ヲ施シタル処稲意外ニ増収アリタリ」
と刻字してある。がこれは裏面のようで、川側に、
「記念跳石」
と刻字してある。これが表のようだ。
また、側面には、
「施主 楠浦村宗心寺 澤田禅興和尚」
また、反対面には、
「発起人 通山中 
 世話人 山田由吉 山本惟作 山田要造 
 石工  大塚長造」

と刻まれている。

水稲晩化記念碑   天草市本渡町本渡馬場 天草農業研究所構内

水稲晩化記念碑

農林大臣 石黒忠篤書

我郡ノ主要農産物ナル米穀ハ従来専ラ早稲ニシテ敢テ晩稲作ヲ試ミサリシハ晩稲ノ収穫多キヲ知ルモ螟虫害ノ為ニ多ク
ハ枯穂化スルノ危険ヲ虞レタルナリ其ノ害ヲ知リテ其ノ害除クノ方法ニ於テ審カナラサリシニ由テナリ大正十二年
始メテ郡内志柿福連木城河原ノ三村ニ各数町歩宛ノ晩稲晩植ヲ試ミタルモ其ノ四周ガ早稲田ナル為ニ螟虫ノ蝟集スルト
コロトナリ且ツ播種移植共ニ尚ホ早キニ失シタル為メニ被害多ク偶晩化作ノ発達ニ停頓材料ヲ提供シタレリ 是ヨリ先
本県農事試験場地方農林技師藤本虎喜氏水稲ヲシテ螟虫害ヨリ免レシムノ方途ヲ研究シ三化性螟虫ノ発生時ニ其ノ奇
生床ナル早苗田皆無ナレバ幼虫蓋ク餓死シテ夫ヨリ生スル被害ヲ絶滅シ得ルノ確信ヲ夙ニ是ヲ八代郡等ニ普及シテ成
績顕著ナリシモ我郡ハ尚ホ久シク旧態ヲ改シムニ至ラス郡農会ト天草市庁当局トハ晩稲作ノ米穀増産上一日モ忍緒ニ付
スヘカラサルヲ痛感シ楠浦佐伊津一町田当諸村ノ先覚ト呼応して其ノ試作ヲ反復シ経営惨惨スルモノアリ而ニ其ノ地域
ノ全般的ナラサリシ為ニ十分ノ成績ヲ見ル能ハナリシモ不撓ノ勇猛心ヲ以テ数年之ヲ繰回シタリ昭和四年ニ至リ始メ
テ阿村全村ニ晩稲栽培ヲ試ミ予期ノ好成績ヲ挙ゲ得タルニヨリ翌年更ニ今津村ニ及ビシ両村共ニ収穫量始メテ従来ニ倍加
スルヲ得タリ茲に於イテ郡内町村ノ大部分競ヒ之ニ倣ウ而シテ尚ホ十ケ町村早稲スルヲ利セリ此ノ如キ必ズ隣接
町村ノ利害ニ関スルコト大ナルニヨリ昭和八年県令ヲ以テ全部ニ水稲晩化栽培ヲ実施セラルルニ至ル此時ニ当リ尚ホ守
旧者流ノ危ぐヲ抱クモノアリ此令ノ施工ヲ以テ農民ヲ飢餓ニ曝サントスルモノナリト罵り喧々轟々休止スルコト無キニ
ヨリ藤本技師自ラ陣頭ニ立チ天草市庁当局郡農会各員町村ノ先覚説得慇懃倦マス辛ウシテ全部ノ実施ヲ見タカ如き今
ニシテ当時ヲ回顧スレハ洵ニ感慨限リ無キモモノ 蓋ニ水稲晩化栽培ハ我郡ノ農業革新ナリ是ニヨリテ享クル裨益ノ
主ナルモノハ収穫量ノ増加其ノ一ナリ穀質ノ優良其リニナリ裏作ニ一毛を加ヘ得ルコト其ノ三ナリ農家労作ノ順序を整
頓セシノ得テ桑蚕其ノタノ副業ニ支障ナキヲ得ル其ノ四ナリ就中収穫量ノ増加ノ著シキ従来本郡の米穀生産額八万石前
後ナリシヨリ此ノ栽培ニヨリ優二十三万石ヲ生産シ得ルニ至ル豈偉ナラズヤ
本歳偶皇紀二千六百年ノ佳年ニ当リ我郡大部ノ水稲晩化栽培ヨリ十周年を数ヘ米穀増産ノ急務ハ愈切ナルノ秋ニ会ス輒
ニ疋日議シテ碑ヲ建テ銘を現農林大臣石黒忠篤閣下ニ乞イ如上ヲ録ス因ニ現本県ノ農務課長藤本技師ニヨリテ貽ラレタル
無強ノ業績ヲ頌シ当時以来斯業ノ為ニ尽瘁セラレタル官民諸氏ニ向ツテ深甚ノ感謝スル所以ナリ

 昭和十五年十一月下浣

                                      天草郡農会長正七位中井亮作撰