島原大変・肥後迷惑 


    
雲仙眉山崩壊に伴う大津波被害
 
     発生年月日  寛政4年4月朔日 (1792年5月21日)


 島原半島と天草島は指呼の間である。島原大変・肥後迷惑と言われる寛政四年の眉山崩壊・津波(以下寛政地変と称す)の当時、天草は、島原藩預かりであった。そして地変155年前の天草島原の乱では、両地の民衆が、心ひとつにして、巨大な藩・幕府権力に立ち向かっている。そういう意味でも天草と島原は、かつて一体であったといっても過言ではないであろう。
 現在天草は、熊本県に所属しているため、肥後迷惑というと、確かに迷惑を受けたように思うが、当時はそういうわけで、天草は迷惑ではなく、当事者としての天草大変が適切な表現であったかもしれない。
 地変があった翌日には、天草から富岡滞陣の役人と共に富岡町庄屋も、島原へ向かっている。現在と違い、即時性がない情報社会の中でこの対応は、正に天草が、島原と一体であったということであろう。もちろん、封建社会の支配・支配者の関係もあったかもしれないが。
さて、平成二年の普賢岳噴火により、秀麗であった雲仙岳が、溶岩でちょっと醜く(?)なったが、それでも、天草の人々は、雲仙岳を借景として愛してやまない。もちろん、昔の人も同じで島子に対岳楼と名付けた施設を作ったことでもよく分かる。
 ただ現在では、気象条件が悪く、すっきりくっきりした雲仙岳の姿をなかなか眺められないのが残念である。
 さて、寛政地変では、天草も対岸であるがゆえに、津波の被害を受け多数の人命が失われた。更に、天草人以外の流死者も多かったが、生き残った人々は、地元の死者と共に、供養塔を各地に、思い思いに建て、死者を供養している。
それが地変から200年以上も経った現在も残っている。或る塔は、立派に管理され、ある塔は、見捨てられている違いはあるが。
 筆者は参考文献をもとに、天草各地の供養塔を訪ね、写真に収めた。文献には、ここで紹介した他にもあるようだが、現場に確認したものだけを載せた。
天災は忘れたころに来る、という寺田寅彦のことばではないが、つい最近の東日本大震災のように、過去にも同じような天災があったにも関わらず、多数の被害者を出した。
 もちろん、未曾有の災害と言われるように、過去の災害と比較できない面もあるかもしれないが、もし、過去の被害を教訓として、行政や人々が、もっと真剣に対策を取っていたなら、被害者はもっと少なくなっていたのではないだろうか。
 歴史が好きな人は多い。だが、人はなぜ歴史に興味を示し、好きなんだろう。時代劇が面白いという人から、史実を掘り起こす専門的な人まで様々である。でも、歴史を学ぶということは、過去の歴史事実に学ぶことである。歴史を学ぶといっても幅広い。だが、共通点は、歴史を教訓として、自らの糧にすることである。そういう意味で、ただ単に歴史は教科書的に学ぶことではなく、教訓として学ぶべきであると考える。

 天草では、昭和47年に大水害を経験した。しかしこの水害を記憶している人も少数となり、人々も行政も忘れ去られているのが現実だ。わずかに被害の大きかった竜ヶ岳町で、この水害を忘れまじの行事が行われているのが救い程度である。
 過去の出来事が、数百年であろうが、行政・住民一体となった過去の被害を検証する行事や慰霊碑等の維持管理・紹介、また訓練・対策をきめ細かく行うことが、「天災は忘れたころに来る」時に、被災者を一人でも少なくする方策だと思う。

 島原大変 地変の概要

 島原大変の予兆は前年の10月8日(陽暦11月3日)に始まった。地鳴りを伴った地震がこの日以降、毎日3〜4回起きる。そして、同年の1月には普賢岳ふもとから噴煙が上がる。更に2月に入ると溶岩流が生れ、下旬には炭酸ガスが噴出、鳥獣が死ぬ現象が起きる。
 3月に入ると、震度は5〜6、新しい湧水や地割れが発生。前山崩れの前兆現象が始まっている。そして。3月9日島原大変の際の崩壊の中心部で約200メートルの山崩れが発生した。

 そして、運命の4月朔日、地震と共に前山が大崩壊し、津波が数波発生。
 だが、夜のことでもあり、人々は前山崩壊による津波とは気づかず、朝になって、前山が崩壊したと分かったという。
この津波による死者は1万5千人に及んだ。


 天草郡の様子と被害

「亀川附山方役高田家文書」によると。

 「寛政四年子三月朔日七ツ時分より大地震三月中日ゝゆり屋ミ不申候。九州筋ハ何国も同前ニ相聞候。四月朔日夜六ツ半時大津波、嶋原表御城下始メ其外所々津波山潮ニ而人種も川き候程死人数不知。天草は本戸馬場村、広瀬、才津、御領、亀川村、町山口村、溺死凡三拾人程、栖本組セ戸、志柿、大島子村、小島子村、下津浦村、上津浦村枝郷下津江、溺死六拾七人、赤崎村溺死七拾人余り、須子村九拾人余り、大浦村同前、大矢野三ケ村之内ニて千人許溺死仕り、後地も同前風聞致候。四月六日印置。」とある。

 現代文に直すと、
 「寛政4年3月1日(陽暦では1792年4月21日)、17時頃より大地震があった。この地震は、3月中連続して起きた。九州各地でも同様であった。4月1日(1792年5月21日)、20時に大津波が起きた。島原城下を始めその近辺、山崩れ・津波により人はすべて死に絶えた程の死人が出た。死人の数はあまりにも多く分からない。天草は、本戸馬場村、広瀬、佐伊津、御領、亀川村、町山口村、溺死者はおよそ30人ほど。栖本組瀬戸、志柿、大島子村、下津浦村、上津浦村下津江では溺死67人、赤崎村では溺死70人あまり。須子村90人あまり。大浦村でも前に同じ。大矢野では三カ村で千人ばかり溺死した。そのほかの地でも、同じような被害があったとのことのようだ。4月6日。」

 4月6日の時点では、まだ混乱の中にあり、この多数の溺死者は、村人ばかりでなく、流れ着いた流死者も含まれていると思われる。

 「寛政四年島原地変記」によると、天草郡の被害として、(現代文訳)

肥後国天草郡は島原対岸の地である。4月1日、前山破裂の時、激波18カ村の海岸を洗い、人畜死傷分からず。当郡は当時島原藩の預かり地であったので、被災民に一時の救助を行った。4月23日、幕府は金四百両を貸与し、また施餓鬼料として別に銀十枚付与し、流死が最も多かった大矢野村遍照院に於いて、執行させた。島原藩主もまた別に銀五枚を大浦村九品寺に寄付して施餓鬼を執行した。

 大矢野島は死屍の漂着が殊に多く、村民は、小児の慈善心に感動して、各々奮い立ちこれを埋葬する。始め有資者は樽あるいは桶等を購入し、裸体の者には古着を着せ、これを埋葬した。だが日を追って漂着は多くなり、ついには樽や衣類が不足し、最後には莚に包み葬ったという。
 漂着者がいかに多かったかが分かる。


 
天草郡損害の概況は次の通り。

 被害18カ村
 流家373軒 
 損家352軒 
 流馬屋439軒 
 溺死人343人(男148人、女195人)
 流死牛馬109頭(牛45頭、馬65頭) 
 田畑65町8反余 
 苗代49町5反ほど
 地船67艘 
 高札場3か所
 カライモ畑40町6反余
 見取り田15町5反程 
 郷倉2カ所 
 塩6610石程
 塩浜16カ所、20町余 (以下略)

この中で、「小児の慈善心に感動して」というくだりがあるが、是はなんのこっちゃーと思われたと思う。このことは、慈善者という項に述べられている。
天草郡大矢野島上村の漁人某の子で7,8歳になる者が海岸に死体の漂着が多いのを見て、惻隠の情を起こし、度々これを埋葬する。そのため村民はこれに感動して、先を争って死体の埋葬に従事した。資産がある者は埋葬の所具を出し、或いは人を雇ってこれを助力した。また、近村の住民もこれに感化され、天草郡の各村は争ってこれに従事した。
 このようなことで、天草にもたくさんの津波被害者の供養塔が建てられ、現在でも多く残っている。



 天草から見た雲仙岳 

 天草各地の供養碑

 上天草市大矢野町湯島の碑


 
湯島は島原半島ら僅かな距離しかなく、天草島では一番近い所(島)だ。

 したがって、この島へ流れ着いた流死体も多かったであろう。
 
湯島は、別名談合島と呼ばれるように、天草・島原の農民たちがこの島に集い、天草島原の乱を作戦を練った場所であるという。
 さらに、この島の住民はこぞって乱に参加し、島は一時無人島になったといわれている。

その乱から155年後に起きたこの地変事。何人の住民がこの地に住んでいたが明らかではない。
また、この地に移住した人々は、何処から来たかも定かではない。

ただ江戸時代の人は、何処の生まれであれ、我が地に流れ着いた無縁仏を手厚く葬る、優しい心情の人であったようだ。
その事を、この碑の建立が物語っている。

 

 

 

 苓北町富岡新町、
  寿覚院西生庵境内の碑


 「両肥溺死萬霊等」
 寛政7年4月10日、3年忌 建立

 両肥とは肥前と肥後の意。
 塔が等になっている。

 大きな塔だ。松田唯雄著の「天草近代年譜」には、
 「寛政七年四月十日 島原雲仙崩れによる津波溺死者の三年忌に付き、富岡にては寿覚院覚院末庵西生庵の境内に、大なる自然石の万霊塔を建碑し、是飛懇ろに追善供養す。


  
 天草市五和町鬼池・若宮公園の碑

 「島原水災死骸漂流海漂□一百 寛政壬子四月朔日

 
鬼池港の手前、若宮公園にある。
 
 大島周辺の海岸に打ち寄せた亡骸、百数体を葬り、慰霊のために建てられた供養塔である

 「五和まちづくり協議会」の説明板には、次のように記してある。


 
寛政の津波供養塔
 

 寛成4年(1792年)、雲仙岳の大爆発による地震で眉山が崩れ、有明海沿岸に大津波が打ち寄せ、死者行方不明の人々1万数千人に及んだ。その中の100有余人が大島に流れ着いた。その溺死者を小山家が費用を出し、ねんごろに埋葬供養したもの。元は向墓地にあった。

 
 注釈
 
 小山家とは、当時天草のトップレベルの銀主であった。
 当時の当主は、四代清四郎勝定であった。
  
 向墓地は、現在の五和中とセントラル病院の間の小高い丘に位置する墓地で、ここは小山一族の墓やキリシタン墓碑群がある。
  この碑の左側面には、碑の建立の趣意文が刻字されているが、摩耗して全文を解読するのは、筆者には困難。残念である。

 
 
 


 
苓北町都呂々浜の碑

両肥溺死」とだけ刻んである。砂岩で台座を作り変えてあるため、下の刻字が消滅したのかもしれない。


 
天草市有明町赤アの碑


 地元の人は、メントサマと呼ぶという。メントサマとは無縁塔様が転訛したものと考えられる。
 享保9年(1724)年記刻。年代が合わないが、既存の無縁塚に、大変後、村人たちが新しい意味を付加したのではないかと言われている。


 《現地案内板》

  寄り人様の由来

 寛成四年(一七九二)旧暦の四月一日、雲仙岳眉山の火山性大崩壊によって有明海に大津波が起きました。この大災害で肥前、肥後の沿岸住民一万五千人余の人命が一瞬にして有明海に飲み込まれました。天草でもそのときの大津波で四百人余(一説でわ千四百人)の犠牲者を出しました。
 天保八年(一八三七年)の赤崎村明細帳によれば、津波に襲われた同村の流死者三十六人とあり、ご公儀から三十両の拝借を仰せつかっています。また、亀川附山方役高田家文書にも赤崎村溺死者七十余人余りという一説があります。
 村々の海岸にはおびただしい亡骸が打ち寄せてきました。人々はそれを「寄り人様」と言い、供養を営みました。その後、各地区では無縁塚を建立して、寄り人様の霊をねんごろに弔いました。
 ここ赤崎の慰霊塔もその一つで、地元の人からは「メントさま」とも呼ばれています。
 (メント様とは、無縁塔様がなまったもの。)

 平成十六年六月十日  有明教育委員会



 
天草市有明町下津浦の碑

  刻字はよく読み取れない。


 
 
 
天草市有明町小島子の碑

 
「溺死霊魂塔」
  「維時寛政四年壬子四月朔日」

   


  
国道脇の民家の入り口にある。そのためか保存状態はいい。銘文もはっきり読み取れる。建立者21名の名が刻まれている。「寄人様の由来という旧有明町教育委員会の案内板が設置されている。左下サムネイル参照。
   
《現地案内板》  先の赤先の案内板とほぼ同じ

 寄り人様の由来

 寛成四年(一七九二)旧暦の四月一日、雲仙岳眉山の火山性大崩壊によって有明海に大津波が起きました。この大災害で肥前、肥後の沿岸住民一万五千人余の人命が一瞬にして有明海に飲み込まれました。天草でもそのときの大津波で四百人余(一説では千四百人)の犠牲者を出しました。
 村々の海岸にはおびただしい亡骸が打ち寄せてきました。人々はそれを「寄り人様」と言い、供養を営みました。その後、各地区では無縁塚を建立して、寄り人様の霊をねんごろに弔いました。
 ここ小島子鯨道の慰霊塔もその一つで、慰霊祭は今でも受け継がれており、毎年四月一日は津波節句の手料理が振舞われ、地区民の交流を深めています。
                         平成十六年十月
                                 有明町教育委員会


 天草市五和町御領 黒崎海岸の碑
  
  
 「寛政四年朔日溺死の墓 南無阿弥陀仏」

 
案内文 ** 寛政4年の雲仙岳噴火による津波で周囲に打ち寄せた亡骸を慰霊のため建てられた供養塔である。

 黒崎海水浴場の南側ちょっと山手にある。損耗が激しく銘文は読みとれない。 

  


 
天然記念物 津波石    天草市五和町御領

 
案内文 **
  寛政4年(1792)雲仙火山活動により有明海一帯は最大50メートルの津波に襲われ、島原、熊本合わせて1万5千人が亡くなった。
 この石は、その時の津波により海岸から打ち上げられたと伝えられている。

 

 佐伊津町の供養塔
 
 
「寛政四年朔日溺死の墓 南無阿弥陀仏」
 「称仏名号・生命終時・即時女身・得才男子」
 施主2名の名


 佐伊津海岸から鉄鋼団地へ向かう道の1.5kmの山手にある。元は浜にあったが、漁港改修で現在地に移されたという。写真では小さく見えるが、1.8mもの高さがある。
塔は二基あるが、右側が供養塔で、左は無縁仏塔と思われる。

 

 

 苓北町坂瀬川和田の碑

 「両肥溺死塔」

 観音堂の中にある。
 九基の観音像の一員として、地区の人に大事によって大事に祀られている。
建屋の中にあるのは、この塔だけで、また、観音像もここだけである。 

 
 
 苓北町志岐浜の町の供養塔

 
「両肥溺死」

 共同墓地の一角にあるが、隅っこにあるだけに、見捨てられているようで、なんとなくさみしい。

 
 
 有明町上津浦の供養塔

 
「寛政四年子四月朔日 溺死亡霊塔」

 
国道改修で、上津浦漁港東側奥にある。ここには4基の塔があるが、左から2番目の塔が供養塔である。
 損耗が激しく、今にも崩れそうで、鉄線で補強してある。

 

 五和町二江須の脇の供養塔

 
「流死者供養百年祭碑」

 
二江の須の脇の共同墓地の海側にある。
 立派な供養塔だ。銘文からも分かるように、百年忌にあたる明治20年に建立された。
 被災当時の碑は、右側に残存しているが、剥離が激しく、銘文は不明。
 災害から100年後に立派な塔を再建して天草人の優しさに感動すら覚える。 

 
 
 五和町通詞島の供養塔

 「無縁法界萬霊」
  寛政壬子年四月朔日
  肥後島原天草

 
通詞島の「海潮庵」の境内にある。
 建立者も刻まれているが、若者中くらいしか判読できない。
 2013年6月10日に発見した。

  

 

 有明町下津江の供養塔

 
銘文は剥離のため判読不可。

 
民家の上に墓地があるが、その途中の林の中にある。
 案内板もないので、予備知識がなければ分からない。
 元浜(下津江浜・四郎が浜海水浴場)にあったが、現在地に移されたという。 

 
 
 有明町須子の供養塔

 「□□□漂着溺死塔」
というが、現在は読みとれない。

 「須子の寄り人様」と呼ばれている。
 塔は、須子漁港東側の共同墓地にあり、今も花が手向けてあった。
 亀川附山方役高田家文書によると、須子村九拾人余りとある。天草では一番被害が多かったところだという。

 

 五和町鬼池の碑

 
「帰命尽十万無碍昇光如来」
  「一切諸仏所護念経」
  「一石一字無縁霊塔


 
光明寺境内にある。
 この塔には、地変の慰霊塔を表すような銘はないので、伝承を信じるほかはない。
 無縁仏と合わせて祀ってあるという。

  

 
 有明町須子の碑
 
  寛政四子年
 
津波溺死諸霊
  四月朔日

 この碑は、須子神社の道をはさんだ西側の川の側にある。
 2014年4月1日、発見した。
  



失われた慰霊塔

   元あった場所  天草市天草町高浜 隣峰寺

 群霊海會之塔

 この塔は、かつて隣峰寺に存在したが、当寺建替えの時滅失したという。

 天草の地図を見てみるとよく分かるが、この高浜の地は、雲仙岳とは遠くかつ対岸でもない。しかし、この高浜村にも、七体の流死体が流れ着いた。
 その遺体を篤く供養したのが、時の高浜村庄屋の上田宜珍である。
 『天草近代年譜』には、次のように記してある。
 4月 島原雲仙崩れの七周忌に会し、当時高浜村へ漂来した七員の溺死体が海岸に仮葬のままであったため、同村庄屋上田源作衆に計り、これを隣峰庵境内に移送して厚く供養し、群霊海會之塔を建てて、冥福を祈る。

 またうえた宜珍は、文化5年(1808)3月晦日の「上田宜珍日記」に次のように記している。
 今晩より明朝迄海会塔御供養 江月鑑司和尚(大江 江月院)もお迎え 庵へ御受込 十七回忌御回向有之 村方より銭百五十匁遣わす

 ※現在は隣峰寺となっているが、当時は隣峰庵であった。

 図は、『たいへん 島原大変二百回記念誌』より
 下の碑文は、『天草史談 12』より
  


 


 〈参考文献〉

    『たいへん 島原大変二百回忌記念誌』島原仏教会編
   『寛政四年島原地変記』金井俊行編
   「あまくさの民俗と伝承」--  島原大変肥後迷惑 北野典夫
   『天草近代年譜』 松田唯雄 図書刊行会
   『天草史談』天草史談会

   『眉山ものがたり』渋江鉄郎著 昭和堂印刷総合企画
   『雲仙・普賢岳大噴火』村山 磐著 東海大学出版会
   『地震と火山の災害史』伊藤和明著 同文書院
   『島原大変』白石一郎著 文春文庫