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竹添井井(進一郎)
せいせい
中国大陸紀行文 『桟雲峡雨日記』 を著す
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頌徳碑文 文学博士・竹添進一郎先生は、大矢野町大字上馬場の医師・小田順左衛門と二神家出の美加の一子として、天保13年(1842)に出生。 幼少より学を好み、3歳にして経書を朗読し、神童の誉れ高く、当年15歳熊本に出て、木下韡村(いそん)塾に入門。天性の学才は冴え、井上毅らと木下門下の四天王と称される。 22歳のとき細川藩に士分として召しだされ時習館訓導を勤める。 27歳、藩命により京都、奥州、江戸を探訪する。特に江戸では時の英傑・勝海舟を訪ね、国家大経を論じその見識の深さに海舟を驚かしめ、以後親しく交わる。 明治4年廃藩置県となるや、先生は城下寺原瀬戸坂に開塾、転じて現玉名市伊倉町に遜志斎を開き子弟の訓育にあたる。名を慕い学ぶものが多かった。 八年、塾を閉じて上京、勝海舟と再会し、海舟らの推挙により特命全権大使森有礼の随員として清国に渡る。次いで中国大陸中部以北の奥地を踏破し、名著≪桟雲峡雨日記並詩草≫を著し、日本国内はおろか中国文人等の絶賛を受けた。 明治13年より清国天津領事、朝鮮弁理公使を歴任し、明治18年朝鮮弁理公使を退任、引き続き無任所弁理公使として在任中、時の文部大臣・井上毅の要請により、明治26年10月東京帝国大学教授に就任。 明治28年(54歳)退官し、同年相州小田原に閉居、かねて念願の読書著作に専念。二十余年をかけての大著≪左氏会箋≫により帝国学士院賞と文学博士の称号を授かる。 明治35年皇太子嘉仁殿下(大正天皇)を小田原に迎え拝謁、その夜、特に召されて前席講演ををなし、書を閲覧に供したことは特筆すべきことである。 又先生の次女須磨子は、講道館柔道の始祖・加納治五郎に嫁ぎ、その長男履信が竹添家を継いでいる。 大正6年3月31日、76年の生涯を全うし、政府より従三位勲三等を贈られた。 熊本県教育委員会は昭和29年近代文化功労者として顕彰し、その賞状末記に「天下の碩学と称せらるるに至ったことは、洵後進を奮起せしむるものである」と記してある。 先生逝き80年、恰も世上混沌たるこの時、先輩諸賢意思を継承し、先生の遺訓と遺徳を偲ぶよすがとして内外の有志の賛同と協力を得て、茲に頌徳碑の完成を見るに至ったことは誠に意義深いものがあり、望外の慶びとするところである。(川上昭一郎記す) 平成10年3月吉日 竹添進一郎先生顕彰碑建立期成会 会長 何川一幸 |
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上天草市大矢野町の運動公園に、一基の頌徳碑が建てられている。 顕彰碑の主は、竹添井井・進一郎である。 竹添進一郎、竹添井井といっても、現在の天草人にとって、ご存じない人も多かろう。 事実、彼は天草にとって、具体的には何もなしていない。したがって、天草人にとって、馴染みがないのは当然である。 ただし、父の荀園は、大矢野上村で子弟の教育に当たり、後、天草市本町の東向寺に聴松堂を開塾している。 井井は、明治初期、郷土の枠をはるかに飛び越え、さらに日本をも超え、外交官として、その存在を示した人物である。 さらに、政務官の枠をも超え、旅行者であり、文学者でもあった。即ち、天草が生んだ偉人である。 竹添進一郎という人を簡潔に知るためには、彼の頌徳碑の碑文を読むことが手っ取り早い方法だろう。 碑文は河上昭一郎氏による。 (頌徳碑文は上記を参照) 顕彰碑文には書かれていないが、井井が外交官として、赴任していた時期は、日本が朝鮮。清国に進出を始めていた時期であり、当然日本と朝鮮・清国の国民との間で、様々な争いが頻発していた。 主な事変としては、「壬午事変」「甲甲事変」「京城事変」など。 井井も相当な苦労をしていたようだ。 もし、井井が、平和な時代に中国に滞在していたら、旅も重ね、次に紹介する旅日記も、更に重版が出来ていたものと思える。 日本・中国の 当時の関係を知る書 竹添進一郎については、松田唯雄著の『天草近代年譜』に詳しく書かれている。その年譜から竹添関係を抜き出したのを、ウエブページ「天草探見」に掲載しているので、興味ある方は覗いて下さい。 さて、それよりも、読んでもらいたいの『桟雲峡雨日記』である。この原文は漢文で記されていて、原文を読むことはまず不可能であるが、幸いに、現代文に翻訳されている書が刊行されている。 それは、平凡社 東洋文庫の「桟雲峡雨日記」岩城秀夫訳注 である。 ただし、この書も一般に書店では手に入らないとは思うが、ネットでは購入可能と思える。 ただ、翻訳とはいえ、なかなか小説を読むようなようにはいかない。 すべて読破するには、相当の根を必要とする。筆者には。 『桟雲峡雨日記』 頌徳碑文にあるように、竹添進一郎(井井)は、明治8年(1875)森有礼の駐清全権公使就任にともない、随行して清国へ渡った。その期間に、111日に及ぶ中国各地を旅して記したのが、この『桟雲峡雨日記』である。ここにあげた本書は、我々が読めるように岩城秀雄氏の労により、口語体に訳されているが、元は漢文である。 ついでながら、訳注者の解説のページを借りて、井井が旅した行程を記すと。 明治9年(1876)5月2日に北京を出立し、保定・石家荘・邯鄲を経て、洛陽に至り、さらに函谷関から西安に行き、これより泰嶺を越えて、南鄭から剣閣へと桟道の難所を進み、西都、そしてさらに重慶に至った。 そのあとは、長江を船で下り、三峡を通過し、洞庭湖の景観をほしいままにして、8月11日に上海に到達した。 井井は、「はじめに」でこう記している。 明治八年(1875)乙亥の歳の十一月、私は森公使に随行して清国に渡航した。 北京の公使館に駐まること数か月、四川から来た旅行者が、その地の山水風土について語るのを耳にするたびに、わたしはそぞろ心も落ち着かず、魂は四川に飛ぶ思いで、圧さえようにも圧さえきれなくなってしまった。かくして公使にお願いし、津田君亮とともに、九年(1876)五月二日旅装をととのえて出発した。 現在でも百日に及ぶ中国の旅は至難であるが、更に現在とは比較にならない当時の中国旅行は、大変な困難が伴ってたはずだ。 本書は、口語体に訳されているとはいえ、中国の地名の漢字が難しく、読みづらいが(ルビがふってあるがないのも多い)、それでも、我慢して読むと、井井の意が伝わってくる。 また、注が多く、そして詳しく付けられているので、単なる読み物というより、歴史書・地理書とも言えよう。 長旅を終え、北京に着いた八月二十一日でこの日記は終わっている。 ちょっと長くなるが、この旅行最後の日の日記を抜粋してみよう。 八月二十一日 船は上海に到着した。(中略) この度の旅行は百十一日間、行程は九千余里であった。おおよそのところ、車を使ったのは十分の二、轎(かご)は十分の三、船旅は車と轎を合せたのと、ほぼ同程度であった。 (中略) 思えばわたしは年まさに少壮であるから、いつの日か嶺南(今の広東省・広西壮族自治区・ベトナム地方)を旅することができるかもしれない。羅浮山(広東省広州市増城県の東北。梅の名所)に梅花をたずね、両広(広東・広西)において潮を観て、桟雲峡雨日記の続編を書くならば、なんとも楽しいことではないか。 古人は「隴を得て蜀を望む」といっている。わたしはすでに隴(甘粛省)の境まで歩きまわって、さらに蜀(四川省)の名勝を訪ねつくしたのであるが、それでも厭きることがない。人というのは、足るを知らないことに苦労するものである。 井井は、約110日をかけて、中国内陸部の旅をした。行程を九千余里としている。キロメートルに直すと、約3万5千㎞。それでも、中国全体からすると、ほんの一部でしかない。ちなみに、ほぼ日本全土を測量した伊能忠敬は、4 万3千㎞を歩いている。ただ、伊能は測量の旅であり、全て歩行距離である。したがって一概に比較するのはおかしいが、井井は、110日で、伊能が3千7百余日かけて歩いた距離を旅していることになる。船の旅は旅全体の半分と、駆け足の旅とは言え、気の遠くなるような距離である。 井井は恐らく中国語を話せなかったと思う。漢字が共通語の役割を果たしていたとはいえ、地名も詳細に記録している。筆者などは3日どころか1日もしないうちに匙を投げると思うが、井井のち密さと根気には、伊能忠敬同様、畏怖の念さえ覚えるほどだ。 井井が中国を旅したのは35歳の時であった。井井の言うように、まだ若かったので、もし、井井が役人にならず、一介の旅人としての人生を送ったならば、我々はもっともっと、素晴らしい作品を読むことができたし、井井もよりよい人生を送ることができたかもしれない。 しかし、時は混沌とした時代、才子井井にその自由を許してはくれなかった。 井井 天草を詠む 竹添井井は、詩の才能も有り、桟雲峡雨日記の中にも、たくさんの漢詩を詠んでいる。 あまり知られていないが、天草を詠んだ漢詩もある。 平成29年は、井井の没後100年になるという事で、天草市立本渡歴史民俗資料館で、竹添進一郎展が開催された。 ただ、残念ながら、この天草を詠んだ漢詩は、紹介されていなかった。 自茂木将帰天草似無舟止 水与天無際 蛟龍所伏蔵 風醒魚気黒 潮蘸日光黄 遊迹隨飛雁 帰心遂去檣 東南青一髪 遥認是家郷 (「天草の文学」武藤武麿) |
〈参考文献〉 |
『桟雲峡雨日記』 竹添井井著 岩城秀夫訳注 東洋文庫 2000年2月9日 |
『天草の文学2』 武藤光麿編著 熊本国語研究会発行 昭和32年12月25日 (漢詩 自茂木將帰天草以無舟止) |
『天草歴史談叢』 田中昭策著 田中満里子発行 昭和57年1月25日 |