目次へ   2013.6.1更新

天草が生んだ名大関栃光
 
 栃光は、昭和27年栃錦にあこがれて、春日野部屋に入門した。
 天草人特有のまじめさで、身長176センチ、体重120キロ台という小兵ながら稽古に稽古を重ね、全勝で十両優勝をはたし、わずか3年で入幕する。
 栃光の特徴は、前述したように、まじめさであり、稽古の虫であり、押し相撲に徹する相撲の教科書みたいな力士と言われたことだ。一度も待ったをしたことがないというのも語り草となっている。
 昭和37年夏場所、柏戸、大鵬の両横綱を破るなど、13勝2敗の好成績をあげ大関に昇進した。
 大関昇進は同部屋の栃の海(のち横綱)と同時昇進であった。
 そして、昭和41年初場所後引退、千賀ノ浦親方を襲名し、後進の指導に当たる。
 幕内通算成績、486勝403敗11休。
 大関在位22場所。
 惜しいのは幕内優勝がなかったことである。
 名大関といわれるには何が必要かというと、長く記憶に残るような力士であることだと思う。
 その分では、申し分のない力士である。

 昭和52年3月28日、43歳の若さで帰らぬ人となる。「栃光がなくなった」。すでに社会人としてなっていた私は、その訃報を聞き、絶句したことを今でも鮮明に覚えている。 


  <碑文>
 

 天草が産んだ初の大関、栃光正之。
 本名は中村有雄。
 昭和8年、牛深市深海町下平に出生。
 幼時より怪童ぶりを発揮。青年時代は宮相撲で頭角をあらわし、19歳で志を立てて春日野部屋に入門。天草人特有の素直さと、人一倍の稽古熱心により、昭和30年春場所15戦全勝で十両優勝。
 僅か3年で入幕。
 努力と忍耐をモットーに昭和37年5月、大関の栄位に昇進。本格的な押し相撲と一度も「待った」をしなかった堂々の立合いは、力士の亀鑑と仰がれ、名大関とたたえられました。
 大関在位23場所、輝かしい成績を残し、昭和41年初場所後引退。
 検査役、参与として相撲界に貢献中、昭和52年3月28日、43歳の若さで不帰の客となりました。
 ここに、その功績を顕彰し、長く天草の歴史にとどめたくゆかりの本渡諏訪神社境内に銅像を建立するものであります。 

栃光像 天草市諏訪町  諏訪神社境内   

 
 栃光関係写真 

諏訪神社境内の栃光像
製作 亀井勇

左〃

左〃 手形

上同 力石

天草市深海町下平の実家

同実家庭にある「大関栃光の碑」

実家近くにある下平神社

同神社の栃光が寄贈した鳥居

同神社の力石

深海中学校3年生が描いた栃光
深海コミセン

同左 アップ
 
   
 栃光年譜と成績(PDF) 
   
〈参考資料 〉: 『大関 栃光正之一代記』 本渡諏訪神社社務所  編集発行 大野俊康  昭和56年12月1日

           NHK DVD 「大相撲大全集 〜昭和の名力士〜七」