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行人岳     501m 天草市本町

   本町福岡地区入り口から見た行人岳 


車道と歩道
  
  天草には行人岳という名の山が3山ある。
 天草市宮地岳町と天草市河浦町との境にある行人岳(普賢岳)483m、天草市枦宇土と天草市楠浦の間(帽子岳の横)にある行人岳506m、それにここで紹介する天草市本町の行人岳。

 ここに紹介する行人岳は、普通のガイドブックなどには載っていないローカルの山である。地図にも標高が記してあればいい方で、行人岳の名称は見出せない。そんなローカルな山をなぜ紹介するかというと、実は我が故郷の山だからだ。私はこの山を里山として育ったが、里山というには恐れ多い、信仰の山なのである。
 
 行人岳は、天草市本町福岡地区から登る。地図にも載っていないので、少し詳しく紹介しよう。本渡から県道44号線を五和町・本町方面へ進む。一の瀬から左へ折れる。折れずに真っ直ぐ進むと天草空港へ行ける。しばらく行くと、中学校、小学校があり、鈴木神社がある。鈴木神社の下を通って橋を渡ると、三叉路があり、行人岳の道案内の標識がある。ひょいと西を仰ぐと端麗な山が見える。行人岳である。
 行人岳の頂上まで車で行ける道路(コンクリート舗装)ができているが、山人としてはここらへんで車を停めて歩こう。福岡地区集落の最後の家から150mくらいの所に、個人の駐車場がある。
 
 山道は大きく迂回することもなく、ほぼまっすぐに延びている。車道はジグザグに走っているため、ところどころ出会うが、かまわず山道を登る。一直線といっても標高が高い山でもなく、険しい山でもないので、急な登りはない。

 ここら一帯の地質は石が多い。上島の松島、姫戸の山は大きな岩石が特徴であるが、ここの石は堆積岩をコッパ微塵に砕いたような石である。大きいものでせいぜい1メートル、ちいさい石は数センチ、そんな石がごろごろしている。したがって山は痩せ地で、木々は石の間に溜まった腐葉土でかろうじて生きているといえば、大げさか。
 山道にも、そんな大小の石がころがっているので、乗って転んだりしないように注意しなければならない。しかし、腐葉土が積っているので、歩きにくいことはない。

 途中、行者の水がある。コンクリートで枡を作ってあり、ちょっと味気ないが水はうまい。ここで喉を潤す。

 山頂のすぐ下には、行者の飛び石がある。
 ◇行者はこの石より一つ歯の下駄を履いて島原半島の雲仙岳まで飛ばれたという伝説があります。
との説明板がある。

 お堂までは小11時間程度で着く。山頂からの眺望は樹木のためよくないが、ちょっと降りたところの車道からは、本渡市街や天草空港、天草上島が見える。

 行人岳の頂上は、このお堂からやや登ったところにある。
 
 さて、行人岳は、信仰の山といったが、その話をしよう。
 行人とは行者。すなわち修験者いや、天狗に近い存在かもしれない。以下、「天草・霊験の神々 濱名志松著 図書刊行会」を参考に伝承を要約して紹介する。


行人様について、郷土文学・史学・教育者の故濱名志松さんは、『天草・霊験の神々』図書刊行会 のなかで、次のように書いている。
「行人様 一本歯の下駄で飛び歩く」 要約
 
 行人様はもと人間であった。 
 行人様は、本渡市(現天草市)本町周辺を修行して歩いていた。
行人様の履いている下駄は、一本足の下駄で高かった。
歩くたびに、こつ、こつと異様な音がしていたので、「そら、行人様が来らした」と、村人は集まって迎えた。
 というのも、行人様は、村人の暮らしがよくなるように、疱瘡などの病気にかからないように、また山や田畑の作業で怪我をしないように、祈っていた。
 そのため、行人様の通っていた村では、不思議に村人の暮らしが良くなっていたためだ。
 さて、行人様は、天草島だけでなく、海を隔てた雲仙岳(長崎県島原半島)まで、一本下駄で飛び回っていた。島原の人々も、行人様が来るのをまちこがれていた。
 このように村人から親しみを受けていた行人様を、弟子のひとりがうらやましく思っていた。
 あのように、雲仙までも飛び回れるのは、一本下駄のためだろう。
 そこで、行人様の留守の間に、その下駄を借りて、雲仙岳まで飛んでみようと思った。
 弟子はその一本下駄を履いて、思いっきり大地を蹴って飛び上がった。
 が、あっという間に谷に落ちて死んでしまった。
 落ちた谷は、当地福岡地区の南の谷川で「こうずう淵」といって現在も残っている。
 ただし、ボクはその淵がどこか確認していない。
 さて、これを後に知った行人様は、修行が足りんものが、そんなことをしたら命を落とすのは当たり前だと、戒めたという。
 それで、本町福岡地区では、地区の西にそびえている山に、行人様を祀り、行人岳と呼ぶようになった。
 行人様は、豊作、豊魚、無病息災などに霊験があるといわれ、福岡地区のみならず、近郷の人々の信仰を集めている。
 昔から、漁師が沖で暗夜に大時化にあった時は、行人様に向かって祈れば、行人様は灯を照らして船の進路を照らして助けてくれるという。
 とくに、鬼池の漁師たちはこの信仰が強いという。
 2月27日(旧暦)には、福岡地区の人々は、祭礼を行っているが、鬼池の人たちも多く参加するということだ。

 祠には地区の青壮年部の手により、扁額が掛けられている。その額に由来が書いてあるので紹介しよう。
 なお、旧字体で書かれているため、浅学菲才で若干の読み間違い等があるかも知れない。また、新字体にて紹介することを始めにお断りしておく。

 福岡行忍岳 略縁起
 
 それ行忍岳は 昔し 人皇40代天武天皇の白鳳年の事なるに 役の行者小角入唐を企て玉い 九州に渡り豊後の浦辺に文殊の道場を見立て それより久住山 阿蘇 日向 高千穂の辺りを通りて 天草に渡り 悉く路を踏み分け 老岳 帽子 染岳を順行して 行忍に至りぬ
 その時 実相とて 仙術を修して師の無きを恨むる折りなれば 行者に逢い奉りて門人と偽り それまでは今の鶴の山中に安居せしが 行忍に移り 種々に仙術を修し飛行自在を作りぬ ある時は温泉に遊び 又阿蘇に行き あるいは霧島に渡り 郡中を守護するに 天正の乱に菊地の浪人に 金兵衛 喜右衛門とて二人ありて さすがの豪雄にて四郎の類にあらず
 かかる故にこの谷中には四郎の余党一人も入れずと幾許堅固なれども ある時火矢を放って丁間を違い 行忍へ打ちつけ 惜しいかな 千年に及ぶ仙術の行者 これがために死す
 弟子あり自忍という 修行足らずして飛んですなわち落ちたり そのところを俗に中飛転倒と言うなり
 格別の崇き修行者達なればとて 石像の観世音を安置し 諸願空しからずや 嗚呼  かかる仙術の人を失うことを依って観音を信仰する輩は 五体の痛み手足の痛むに祈願するには 立地に平癒することはこれ行者の誓いなり 信心宜しく肝に銘ずべし

 平成5年3月吉日
 福岡青壮年部

  福岡行忍嶽 略縁起 原文はこちら(PDF) 

解読】行人岳について

 昔、四十代天武天皇の白鳳時代の事である。
 役小角が入唐を企て、九州に渡って豊後の海辺に文殊の道場を造らんする。
 それより、久住山、阿蘇、日向、高千穂の辺りを経過し、天草に渡る。それより悉く路を踏み分け老岳、帽子岳、染岳の庵を順行して行人岳に至る。
 その時仙術を修行しても、師が無いことを残念におもっていたが、行者に逢い奉りて門人となる。 
 それまでは今の鶴の山中に安居していたが、行人に移ってから、種々に仙術を修行して、自在に飛行することができるようになった。その技を使い、ある時は雲仙に遊び、又阿蘇に行き、あるいは霧島に渡り、郡中を守護していた。
 天正の乱の時、菊地の浪人で金兵衛、喜右衛門という二人がいた。二人は、豪雄でもちろん四郎の一味ではない。
 そのため、この谷中には四郎の余党一人も入れずと護りを固めていた。ある時火矢を放ったところ、距離を間違って、行人へ当たった。惜しくも千年に及ぶ仙術の行者といえども、このためにために死んでしまった。
 行人の弟子に自忍という者がいた。行人の真似をして、飛行を真似たが、修行が足らず落ちてしまった。そのところを俗に中飛転倒という。
 格別尊き修行者達のため、石像の観世音を安置しても、諸々の願いも空しい。
 しかし、仙術の人を失うことの見返りとして、観音様を信仰する人は、五体の痛みや手足の痛みの平癒を祈願すれば、たちどころに治ることは、行者のお陰であり、信心を肝に銘じるべきである。

 その「行人」とは、何のこと?
 ウィキペディアにはこう書かれている。

 行人(ぎょうにん)とは、古代中世日本寺院内における僧侶の身分の1つ。高野山金剛峯寺において行人方(ぎょうにんがた)・総分(そうぶん)として呼ばれるものも同義である。
 本来は修行者の意味があり、山伏などの修験者も含まれているが、寺院内部においては施設の管理や花・灯りの準備、炊事・給仕など専ら世俗的あるいは実務的な業務にあたる身分を指した。また、行人の中には実務の一環として寺領からの年貢徴収や寺院の警備にあたるものもおり、その中から僧兵などの武装をする者も現れるようになった。 学侶堂衆延暦寺では行人と同一視されている)などとともに大衆を構成したが、学侶よりも下の身分とみなされてときには双方の間で内部対立を起こすこともあった。
 金剛峯寺では、宝徳2年(1450年)に学侶(学侶方)・行人(行人方)間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こし、一時木食応其徳川家康の尽力で和議も行われたものの長続きせず、以後も250年にわたって両者の対立が続き、元禄2年(1689年)と享保元年(1716年)に江戸幕府によって行人に対する弾圧が行われている。明治維新以後、行人・行人方は解体されることになった。

 ※役小角=役行者、役の行者。修験道の開祖。飛鳥時代の呪術者で実在の人物だが、後世の伝説が多い。
 ※文殊の道場=文殊菩薩の道場。中国後漢の時代、山西省北部に位置する五台山にインドの高僧がやって来て、この地が仏典に記録された文殊菩薩の居場所「清涼山」「五頂山」に極似していることに気づき、この地を文殊菩薩の居場所と考えたことから、以来歴代の仏教徒は、五台山を文殊菩薩の道場と考えている。
 ※鶴=天草市本町の鶴地区。行人岳・福岡地区の南側に位置する。
 ※天正の乱=天正の天草合戦。天正17年(1589)に起きた、土豪天草五人衆と小西行長(加藤清正加勢)の合戦。この合戦で長く天草を支配してきた天草五人衆は終焉を迎えた。
 ※菊池の浪人=菊池の意味不明。ただし郷土史家の鶴田功氏によれば、上鶴の浪人と記されている。
 ※四郎=天草四郎。ここでは天草島原の乱(寛永14年・1638)のこと。天正の合戦と天草の乱とは約半世紀の開きがある。

 私的解釈

 行人様に掲げられている扁額の内容は、古文調で、読解するには難解だ。
 しかも、時代が天武朝(670年代)から江戸時代初期の天草の乱(1638年)まで、一気に飛んでいる。
 でも、時代や史実的要素を無視して、その意を汲み取ると、何をいいたいのか、おおよそが理解できそうだ。
 その一、修験者が修行の場を求めて、各地を彷徨った挙句、行人岳に行き着いた。
 その二、ここで修行に励んで、自在に飛行できるほどになった。
 その三、しかし、彼も人の子か修行が足りずしてか、誤って浪人に打ち取られた。
 その四、修験者亡き後、弟子が修験者の真似をして技を試みるが、あっけなく失敗した。
 その五、修験者は人々の生活や健康を念じていたこと。
 その六、村人は、修験者の不慮の事故死を悼み、行人岳に観音像を刻み、今なお祀っていること。

 どうだろうか。
 解読や解釈の誤りがあったら、ご教示いただきたい。

 一石一字塔には

 妙法蓮華経一石一字塔
  天保四年癸巳七月廿八日
  惣願主 福岡村中
  世話人 鶴田兼蔵
 
 と刻まれている。
 四年の四のところは欠けているが、干支から分かる。

 また、元の堂が腐朽したので、このたび新築なった堂に安置されてい観音様の祠には、こう記されている。
 右面
  行徳要仙道者
  享保十三年甲六月十四日
 左面
  天保十三年寅三月
  再建施主 村中
            
 

行者の水
  

新築なったお堂
 

一本歯の下駄
 

本渡市街がチョットだけ見える
 

行者の飛び石
 

扁額
 
 
 一石一字塔
 
 
祭壇
 
 
駐車場も完備されている