定舜上人 じょうしゅんしょうにん |
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江戸時代の刑罰のひとつに「遠島」つまり島送りがあった。遠島というと、八丈島などが浮かぶが、なんと我が天草も流人の島であった。 流人といえば、極悪非道というイメージがあるが、中には無実の罪で流された高徳のお坊さんもいたのである。 |
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定舜上人は流人である。 しかし、そんじょそこらの流人ではない。 上舜上人(以下上人)は、享和元年(1801)、尾張国丹羽郡尾崎村(現愛知県江南市尾崎)に生れた。 上人は14歳の時、上京し、僧侶の道を歩む。 上人は才に恵まれ、かつ努力を惜しまず修業を積み、人並み優れた出世をし、32歳で権大僧都に任ぜられた。 しかし、如何に僧の世界とはいえ、妬みは俗界と同じと見え、若くして出世をした上人は、讒謗により天地がひっくり返るほどの身に落とされた。 それは、流人という重い罪である。 そして上人は天保3年(1833)、天草一町田村に流されてきた。 高潔・高僧であった上人は、人徳学徳を備え、地元住民から一目おかれる存在であった。いわゆる地元民の師であった。 流人は、行動の自由は認められないが、彼は例外で、長崎や日向、伊勢、尾張などへも旅をした。 また「天草郡略史」を執筆して、天草の風土を世間の人々に紹介することもした。 地元民や門人は徳を慕い、上人が在世中にもかかわらず嘉永元年(1848)墓碑を建て顕彰した。 建碑者には近隣の庄屋や僧、神官の名がある。 碑は信福寺の境内にある。 さらに、上人の故郷尾崎村にも碑を送っている。 さらに記念碑も建立した。そのは信福寺の近くの県道のすぐ脇の山林の中にある。 定舜上人が開いた塾、臨川庵の跡地という。 慶応2年(1866)建碑。 上人は、明治になり赦免されたが、そのまま天草にとどまり、1875年(明治8年)75歳で死去した。 詳しくは、宮地信義著「稿本 定舜上人記」を参照されたし。(添付のPDF) |
定舜上人年譜
1801 | 享和 | 1 | 尾張の国丹羽郡尾崎村(現在の愛知県江南市尾崎)で、脇田喜左衛門の三男として出生。 幼名米吉、または熊次郎。 |
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1814 | 文化 | 11 | 叔父の大泉寺月亭和尚の許に寄寓し、僧侶をもって身を立てんと決心する。 14歳。 |
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1815 | 文化 | 12 | 5.09 | 浄土門主華頂王宮に於いて剃髪得度し、学衆として出仕する。 |
1818 | 文政 | 1 | 江戸に下り、芝増上寺教誉大僧正の下などで、修業を積む。 18歳。 |
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1822 | 文政 | 5 | 帰洛。 |
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1823 | 文政 | 6 | 賜香上人の綸命を蒙る。 |
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1824 | 文政 | 7 | 華頂山に於いて、迎誉大僧正の座下で布薩戒愛承、再び華頂山宮家へ出仕。 |
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1825 | 文政 | 8 | 東府使節として、江戸に下り、登城して十一代将軍家斉に拝謁する。 25歳。 |
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1829 | 文政 | 12 | 01.07 01.25 |
勅許により、宮家住侶に昇進し、清浄香院の開基となる。 法眼に叙せられ、石井中納言の猶子となる。29歳。 |
183 | 文政 | 13 | 01.21 | 権少僧都に昇進。 |
1831 | 天保 | 2 | 12.19 | 権大僧都に任ぜられる。32歳。 |
1832 | 天保 | 3 | 06.15 | 京師華頂宮家住侶権大僧都定舜上人が同輩の嫉視讒言により蹉跌退殿し、京都東奉行深谷遠江守の裁断により、西海の孤島天草島へ配流と罪科が決まるる この日、京を後に伏見に下り、淀川を船で大坂送りとなる。 立ち出づる都の空はかき曇り 涙や雨と降りにけるかも 大坂よりは、他の遠島流人20名と共に雇船(伊勢丸)に乗り込み、7月の初旬大阪出船、一路西へ西へと流される。 ※京師(けいし)=王城または皇居のある都。 ※嫉視讒言(しっしざんげん)=他人を妬み、ないことをあることと偽り、目上の人に告げ口すること。 ※蹉跌(さてつ)=つまづくこと。 |
1832 | 天保 | 3 | 08.23 | 京大阪差送りの流人21名(浄土僧上舜も含む)が富岡に着湊、役所に引き渡される。 |
1832 | 天保 | 3 | 08.26 | この時の流人は、富岡町預かり1名、外20名は組々2名宛てに割り当てられそれぞれ村預けとなる。 |
1832 | 天保 | 3 | 09.01 | 配流僧定舜は一町田村預かりと決まり、この日同村に送られ、いぶせき草庵に入る。 以後自ら「残夢道人」と称する。 思ひきや夢にも知らぬ此里を 此身の末のすみかなりとは めでゝ来し花も紅葉も散り果てゝ 我身に残る夢の世の中 |
1832 | 天保 | 3 | 10.-- | 配流僧定舜上人の先行きを見届けるため、京より影身に添うように随従したきた弟子僧格定、ふと一町田村にて病みつき死去する。 |
1834 | 天保 | 5 | 02.-- | 一町田村差し置きの配流僧定舜、里人の心尽くしになる臨川庵に移り、子弟に読書を教える。 この頃より付近の寺社人、詩歌人等、この庵を訪れるものようやく多くなる。 |
1834 | 天保 | 5 | 03.12 | 流人定舜上人の気ままなる旅立ちは、特に役所も大目に見るところある。 この日長崎へ渡り、大宰府参詣を志し、更に北九州各所の名跡を遊歴して、43日ぶりに帰村する。 |
1835 | 天保 | 6 | この年 | 一町田村差し置きの定舜上人病みがちの報に憂慮し、郷里尾張より慈兄伊左衛門と友蔵という者二人、はるばる島に訪ねてくる。 また、京師で召し使っていた有蔵という者も、わざわざ来島し、弧独の庵を賑わせる。 忘れじな波路遥かに訪ね来ぬ心つくしの君が情けを 結びおくえにしの更に朽ちせずば又も来よかしこゝろ筑紫に |
1836 | 天保 | 7 | この年 | 一町田村の定舜上人(36歳)、門人たちの切なる懇望をいれ、妻帯するに至る。 妻は同村御崎そも女。上人より一つ年下の出戻りなり。 |
1840 | 天保 | 11 | 長男、良一出生。 長男出生に際し、尾崎清を創姓する。字は寿堅、幼名良一、眞吾。 |
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1841 | 天保 | 12 | 03.-- | 一町田村の定舜上人、伊勢、尾張へ向け旅行する。 10年ぶりに実家へ帰る。 |
1847 | 弘化 | 4 | 04.-- | 一町田村の定舜上人、父母病むと聞き、帰心矢の如く起こり、遂に役所に請い、再度尾張へ向け帰郷の旅に出る。 時に上人、47歳。恐らくはこの旅の帰国が最後かと観念もし、留別章の一篇を実家に残して去る。 子規何事尽情啼 万里雲山隔楚斎 再会難期他世外 離章催涙不堪題 鳴きすてて行くや五月のほととぎす 残夢。 |
1848 | 嘉永 | 1 | この年 | 一町田村浄土宗信福寺境内に、配流僧定舜上人のために門人達の手により建碑される。 碑は経巻状の円筒形。 ※現存している。 |
1849 | 嘉永 | 2 | 07.-- | 配流僧定舜上人、郷里尾張尾崎村の薬師堂に阿弥陀仏尊像を献じる。 |
1851 | 嘉永 | 4 | 07.-- | 配流僧定舜上人の母死去する。 |
1855 | 安政 | 2 | 03.15 | 一町田村差し置きの定舜上人、当時16歳の一子良一を伴い、伊勢参宮より三都遊歴の長旅上る。 江戸見物の後、富士登山を行い、尾張の実家へも立ち寄り、今は亡き父母の盆供養済まして、帰途につき、9月に一町田へ帰る。 |
1861 | 文久 | 1 | 05.15 | 一町田村配流僧定舜上人の長男尾崎慎吾(良一を改名)、病弱の体質で、医をもって身をたてるべく長崎へ遊学していたが、遂に病みつき、再び快癒せず、この日早世する。(22歳)信福寺に葬る。 |
1866 | 慶応 | 2 | 09.-- | 一町田村臨川庵前に上舜上人の碑が建てられる。 同時に長崎大音寺境内にも建碑される。 ※上記参照 |
1868 | 明治 | 1 | 先の華頂住侶清浄院、前大僧都法眼定舜大通、遂に天草配流の罪を赦免され、京都知恩院並びに尾張の実家より、交々帰国を促す通信がある。 |
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1869 | 明治 | 2 | 定舜上人、この春6月から長き重病のため、遂に帰郷は断念し、長年住み慣れた天草の地に骨を埋める決心をする。 |
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1872 | 明治 | 5 | 定舜上人、この夏より一町田村崇円寺の留守住職となる。 |
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1873 | 明治 | 6 | 定舜上人、肥前大村長安寺徳風の筆になる自分の肖像画を、尾張の生家へ送る。 |
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1874 | 明治 | 7 | 定舜上人、東京大教院より教義上なる官名を下附される。 |
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1875 | 明治 | 8 | 11.25 | 上舜上人、死去。(75歳) 一町田村清瀧山信福寺に葬られる。 実に44カ年に亘る天草在住であった。 |
1899 | 明治 | 32 | 10.10 | 上人妻、そも女、上人没後は先の娘の子である竹下平吉方に扶養されていたが、この日死去。98歳。 |
定舜上人の筆になる「天草郡略志」(PDF) -(稿本定舜上人記・宮地信義著所載を管理人に近く現代文に書き改めました。)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・1)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・2)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・3)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・4)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・5)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・6)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・7)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・8)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・9)
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 (PDF・10)
≪参考文献≫
※この頁は、『天草近代年譜』 松田唯雄著、
「天草配流の定舜上人記」 たそがれ(松田唯雄)著 天草史談9、10号・天草史談会・昭和12年3月、4月発行
『稿本 定舜上人記』 宮地信義著 昭和7年11月25日 非売品
を元に編集しました。
写真は、管理人。
『西海流義民人衆史』 鶴田文史編著 長崎文献社 2014年5月1日発行