天草山崇圓寺由来及び河内浦城について 島原天草の乱後、幕府は天草を天領として統治した。代官鈴木重成は兄僧鈴木正三と共に各村に社寺を再建し、民心の安定と思想の善導につとめた。 郡内四本寺の一つとして、正保二酉年(1645年)この地に創立され、慶安二丑年(1649年)に堂棟、山門が完成した。開山は筑後善導寺より入山された燈蓮杜傅誉上人通風大和尚で以来28代の現在まで約350年続いている。 慶安元年、(1648年)幕府より寺領として、30石が下附され、又将軍家の霊碑を祀っている権威を持ち、下島中南部の末寺、末庵の中心として、教化善導に当ると共に、行政面でも各村の庄屋、村役人の目付役等重要な役割を持っていた。 境内及び裏山一帯は、戦国末期キリシタンを取入れた天草鎮尚(ミゲル)久種(ジョアン)の河内浦城であった。この領主と巡察師ワリニャーノが遺欧四少年と共に昼食を取っている。 関ケ原の戦功で寺沢領となり、一国一城令で破却され郡代屋敷となった。 天草巡視の松平伊豆守や伊能忠敬の宿所ともなっており、裏山の頂上に平坦地、周囲に堀切、帯曲輪、散壕、散兵線の跡や、多数の土器瓦等出土した。 天草山 護国院 崇圓寺 |