河内浦城について
河内浦城は、天草五人衆の一人、天草氏の居城です。
建武4年(1337)5月3日付けの『志岐文書』に「山鹿兵藤太郎高弘申肥後国天草郡本砥島并亀河地頭職之事、請文披見訖、両度催促之処、河内浦大夫三郎入道構城郭、尚使者放矢、至自放火」という記述があります。崇圓寺裏の今の城山が詰めの城で寺の境内は館跡地と思われます。向い山も「城山」と呼ばれる下田城跡ですが、当時はこれらが合わさって一つの城を構成しました。
ルイス・フロイス宣教師が記述した『日本史』には「天草氏の領内には35の村落と4つの城があり、かの殿の主な居宅は河内浦という地にあり」と書かれています。
肥後藩が幕府に提出した『肥後国大道小道等調帳〔慶安4年(1651)〕』に「下田古城 山城曲輪弐百七拾間右之古城より下田村迄弐町」とあります。
江戸時代の寺沢広高統治の時代まで残った中世城跡は「栖本城・佐伊津城・久玉城・河内浦城・軍ケ浦」の五城です。この中で河内浦城と栖本城は元和元年(1615)の「一国一城令」で城を割って、完全な屋敷構えになったと『並河太左衛門記』にあります。この時まで河内浦城代をつとめていたのが太左衛門の父兵右衛門でした。
(注)現在のところ軍ケ浦に城跡は確認されていません。
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