現在、公に供される道を作ったり橋を架けたりするのは、公共工事として行われる。しかし、江戸時代は個人が工事をしていた。 案内板にもあるように、この橋を架けた楠浦村の庄屋宗像堅固は、この橋の他にも川の流れを変える大工事なども成し遂げている。 山都町矢部の、有名な通潤橋も庄屋の建設である。当時、公共工事という概念は無かったのだろうか。 このような大工事を個人でなしたということは、もちろん庄屋の資財のみで建設されたわけではないと思うが、当時庄屋がかなりの財力と権力を有していた証左だろう。 この面からの研究が待たれる。 |
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本渡市指定文化財 楠浦の眼鏡橋 指定年月日 昭和33年5月1日 所在地 本渡市楠浦町字中田原 この眼鏡橋は、楠浦〜宮地往還を結ぶために方原川に架けられたもので、釜の迫の掘切りと共に、楠浦村庄屋宗像堅個氏の威徳を後世に伝える二大事業の一つである。アーチ型の石橋は優美にして且つ堅牢、橋長26m33cm、橋巾3m05cm 明治11年6月11日から80日間で完成している。石材は下浦石で、石工も下浦の松次、打田の紋次、足場枠組大工は楠浦の和田茂七である。宗方庄屋はこの架橋工事の25年前に前潟新田の水害を救うため、方原川の下流を変える釜の迫の堀切りの大工事をなし遂げている。即ち万延元年(1860)から元治元年(1864)まで実に5年余りの歳月と延4万5千余人を使った大工事であった。削河碑は、方原川が「なきごしの海」に曲がる河畔に建てられている。 本渡市教育委員会 《註》宗像堅個は正しくは堅固 |