天草・島原の乱
天草・島原の乱が与えた影響について、天草の郷土史家北野典夫氏は著書「天草キリシタン史」でこう書いておられる。
キリシタンの乱は、また、桶狭間、関ケ原、大阪冬夏の陣など著名な合戦より、この日本列島の歴史に大きな影響を与えた。
織田信長が勝とうが、今川義元が勝とうが、大局的に見て、日本民族進展の歴史にさしたる変化はなかったであろう。徳川家康が負けようが、石田光成が負けようが、日本民族は、歴史発展の必然的段階を、同じようなパターンでもって歩み続けたに違いない。しかし、キリシタンの乱は、その後二百二十年にわたる徹底した鎖国政策となった。この乱を契機に、日本列島は、みずからの意思によって、全世界から、全人類から弧絶する道を選んだ。
そしてさらに、徳川幕府が鎖国主義を捨てていたら、日本民族は、海外雄飛を続け、シベリアあたりに日本共和国を出現させていたかも知れない。また、南方諸民族国家では、日本人のエネルギーで白色人種の植民地化を阻止していたかも知れない。ひょっとしたらあの大東亜戦争も起こらずにすんだかもしれない。・・・と。
また、乱の規模(幕府軍の動員数、双方の死傷者など)からしても、あの西南の役よりも大規模な戦いであった。けっして、天草・島原地方の単なるローカル一揆ではなかったのである。
もちろん、この乱が天草歴史に与えた影響は、計り知れない。それまでの中世から近世へ大きな転換をした事件であった。
天草四郎 三宅藤兵衛の墓 林兄弟の墓
天草・島原の乱キリシタン軍上陸の地 天草市有明町上津浦
(註)一揆軍が進撃を開始した地点。標柱だけで碑文・案内文はなし
史跡、天草、島原の乱初戦の地 天草市有明町島子 島子諏訪神社
寛永14年11月13日(1638年)天草四郎が率いる一揆勢2000余は上津浦(これより東に3キロ)に上陸、翌14日早暁海上、浜辺、山手の三手に分かれ富岡目指し出発、この地にて寺沢側、(当時天草は寺沢領)並河九兵衛を大将とする鎮圧勢800余騎と遭遇する。それ迄寺沢側に呼応していた地元住民の多くは突然一揆勢側に就く。情勢の急変と民家の屋敷廻りの竹木(防御柵)で人馬の動きが、自由にならなくなり、並河九兵衛は広いところに出て戦えと下知し、田原である沖の田(これより西へ500m)に移動しそこで激しく撃ちあう。多勢に無勢、鎮圧軍は敗れ本戸(現本渡市内)へと敗走、激戦地町山口川、本戸城、富岡城(苓北町)、原城(島原の南有馬町)の攻防へと拡大してゆくことになった。
平成11年3月
有明町
有明町観光協会
島子地域づくり推進協議会
《註》(1638)は(1637)の誤り
写真は天草切支丹館の天草四郎像
天草、島原の乱激戦の地 天草市有明町島子 コンビニ RIC駐車場
(1637年11月14日)
大島子諏訪神社付近から戦いやすいこの広い田原まで撤退した幕府軍は、この沖の田川を挟んで天草四郎方と大激戦となる。このなかで天草四郎方の夏吉猪之助は幕府軍20数名を切り伏す。これを見た唐津藩侍林小十郎(当時18歳)は猪之助に近づきヤリで突き刺す。猪之助は槍の柄を引き寄せ小十郎を馬から引き落とし首を切る。これを見た小十郎の郎党は猪之助に襲いかかり首をとる。兄又右衛門は無念なりと四郎方に切り込む多数を切り伏せたが自らも疵を数箇所に受け自害する。地元の人々が林家の屋敷の一隅に兄弟の墓地を建て今でも霊を弔っている。墓地はここより、北200mのところにある。
有明町島子地域づくり推進協議会
写真は林兄弟の墓
天草四郎乗船之地 苓北町坂瀬川
寛永14年10月島原・天草で起こった切支丹一揆は、盟主に天草四郎時貞を仰ぎ、島子の緒戦で功を収め、本戸で富岡城番代三宅藤兵衛を屠り、その勢いをもって富岡城を猛攻、陥落寸前まで追い詰めたが落城ならず、俄かに囲みを解いて島原へ引揚げた。当時、この附近一帯は浦内広く海深き良好で、富岡城攻略を断念した一揆群が島原へ渡るため乗船したところと伝えられる。
島民の皆様へ天草四郎こと益田四郎時貞のメッセージによりここに鎮魂の碑を建立しました。360余年前天草島原の乱で亡くなられた天草四郎外8万余りの人々の魂が入魂されています。どうか理解ある島民の方々のお祈りをお願いします。
1999.6有志一同
殉教戦千人塚 天草市 本渡殉教公園
天草島原の乱は、キリシタンの激しい弾圧に加え打続く飢饉と容赦なく取りたてられる重税に苦しんだ農民のぎりぎりの抵抗であった。寛永14年(1637)天草四郎時貞を盟主に仰ぎ上島の上津浦から軍を進め島子にあった城代の前衛を一蹴して本渡の本陣に殺到した。道々キリシタン宗徒を合せ老幼婦女子をも加えた農民軍は数千に達したと伝えられている。戦いは町山口川を血に染め城代軍は城代三宅藤兵衛もろとも全滅するという激しいものになり両軍の屍は山をなした。里人は千人塚を建ててこれを手厚く葬った。この搭は町の路地裏に忘れ去られようとするこれらの千人塚を集めて供養したものである。
本渡市本渡観光協会
《千人塚》由来
寛永14年(1637年)殉教戦において彼我両軍の戦没者をここにお祀りしてあります。旧くは市内船の尾、小松原、亀川等各所にありましたものを時の流れに従いこの地にうつして史実と伝記とを永く後世に残すと共に、諸精霊を篤くお慰めする所以のものであります。
昭和31年(1952年)
殉教戦千人塚建設委員会
殉教公園
天草四郎率いるキリシタン宗徒軍は、寛永14年11月14日(1637)祗園橋一帯の川原で、富岡城番代三宅藤兵衛率いる本隊と激突し両軍の犠牲者は、数百千にも及びました。
この壮絶な戦いにたおれた総ての御霊をここ城山の「殉教戦千人塚」に合祀しています。
島の人々は、この御霊の供養のため毎年10月宗派を超えて盛大に天草殉教祭を執り行い、キャンドル行列、郷土芸能などを奉納しています。又、天草切支丹館には、天草四郎陣中旗、天草の乱、南蛮文化、かくれ切支丹等400有余年の天草切支丹資料を展示しています。
熊本県
「天草四郎陣中旗」
千人塚の上の赤い三角屋根の天草切支丹館には、天草四郎陣中旗が保存されています。これは寛永14年に起きた天草島原の乱において3万7千人の切支丹宗徒を率い、12万余の幕府軍と戦った四郎が使った縦横1086cm十くずしに菊花文織白綸子製の指し物です。中央に大聖杯上に聖体聖餅、左右に合掌している天使が描かれ、最上部にLOWAD SEAOSACTISSLM SACRAMTO(いとも尊き聖体の秘跡ほめ尊まれ給えり)と記され、点々と残る血痕や矢弾の跡には、当時の信仰の深さ、戦いの激しさがしのばれます。
環境庁 熊本県
天草切支丹館蔵
普段はレプリカが掲示してある。
本物は年4回ほど公開される。
富岡吉利支丹供養碑 苓北町富岡
国指定文化財 昭和12年6月15日指定
下の写真は碑文の拓本。富岡港のターミナルの展示品を写真撮影させてもらいました。
文は山口瑠璃光寺住職中華珪法の撰である。
碑文の解読文
武将の墓 天草市城下町
寛永14年11月14日の切支丹の乱に早くも古城山は宗徒の軍勢に奪われ唐津勢浮き足立つを見るや、二陣城下固めの大将(組頭)原田伊予の下知に応じ、武将(番頭)佐々木小左衛門は真先に乗り出した。六尺豊の大身に、あかねの大袰羅かけたれば武者振りひときわ諸士に立ち勝って見えたと言う。逃げる敵を追い散らし主従29人一つ枕に討ち死にした。
次いで武将のあだとばかり切歯扼腕今井十兵衛、佃八郎兵衛、河崎伊右衛門、平山平太夫の4人が刃を連ねて打って出て群がる宗徒勢に割って入り、敵あまたを討ち取り一歩も退かず斬り死した。それらの勇士を葬ったのがここの一画の墓所である。
本渡市
本渡市観光協会
天草島原の乱は、完全な記録が残されていないため、さまざまな伝承が伝えられている。 この石も誰が言い出したか、四郎が座った石という。 形からしても、あまりすわり心地のいい石ではない。 |
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