御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就公 興就公は1832年(天保3年)父、興生公の死去により16歳で第11代御領組大庄屋となりました。 そのころの天草は、ひでり、作物病虫害、風水害、はやり病、大火などに加えて、幕府が取り立てる重い年貢米のほかに、諸経費として法外なお金を割り付けるなど、自然災、人災が容赦なく島民を苦しめたのです。 永年に亘るこのようなくらしの惨状を憂えた興就公は、富岡代官所に出向いて島民の生活苦を訴え、救済方を再三に亘って願い出ましたが、代官所は聞き入れませんでした。 そこで興就公は意を決して江戸に上がり、1845年(弘化2年)12月、江戸幕府老中筆頭阿部正弘公の登城途中に「天草の百姓が安心して農漁業を続けられる仕法(法律)を公布してほしいと、幕府が厳しく禁じた「直訴」を命がけで行いました。 その結果「天草百姓相続方仕法」が公布され、島民は大いに救われました。 |
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長岡興就像 天草市五和町御領 天草市役所五和支所 |
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御領神社二の鳥居 天草市五和町御領 御領神社 |
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御領神社二の鳥居 町指定文化財 郷土の偉人、長岡興就公は御領組大庄屋長岡家の11代目。剛毅任侠に富み、百姓の窮状を救うべく、弘化2年(1845)天草の代表として江戸にでて老中阿部伊勢守に百姓相続方仕法の復活を求め、一命を賭して籠訴に及び後世に多くの民百姓を救う基礎となった(32歳)。弘化4年1月の百姓大一揆の際、指導者として処刑された栖本の古江村庄屋、永田隆三郎と共に「天草の佐倉宗五郎」ともいわれる人物である。 この鳥居は天保11年興就公直訴5年前の建立であり興就公の悲願成就の願いがこめられたものであるといえる。 寄進者として、 長岡五郎三郎興就の名が刻まれている。 |
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大庄屋長岡家墓地 五和町御領 芳證寺墓地 五和町文化財 |
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大庄屋長岡家墓地 五和町文化財 中央に長岡家の始祖細川与五郎興秋公(細川忠興公とガラシャ夫人の第2子)の墓碑があり、大庄屋、9代長岡五郎左衛門源興道が享和2年(1802)に再建したものである。向って右端には弘化2年(1845)農民の窮状に堪えかね百姓相続方仕法の復活を願い江戸幕府へ直訴をした義民、第11代大庄屋、長岡興就公の墓碑がある。なお長岡家歴代の古墓地はこの地の東側に存在する墓碑群がそれである。 |