島原大変・肥後迷惑 雲仙眉山崩壊
寛政4年(1792年)4月1日、雲仙岳媚山が崩壊し、津波が発生した。その津波により、肥前、肥後両国で1万5千人の人命が失われた。
天草郡の被害は18カ村にわたり、海辺流家373軒、損壊353軒、溺死343人(男148、女195))、牛馬流死109頭、田畑損壊65町8反1畝歩に及んだという。
当時の天草は銀主の台頭による貧富差の拡大、天変地異、人口増加(全郡人口11万人余)などにより、小前百姓層は困窮に追い込まれており、津波はそれに追い打ちをかける事になった。
亀川附山方役高田家文書には次のように記録されている。
寛政四年子三月朔日七ツ時分より大地震三月中日ゝゆり屋ミ不申候。九州筋ハ何国も同前ニ相聞候。四月朔日夜六ツ半時大津波、嶋原表御城下始メ其外所々津波山潮ニ而人種も川き候程死人数不知。天草は本戸馬場村、広瀬、才津、御領、亀川村、町山口村、溺死凡三拾人程、栖本組セ戸、志柿、大島子村、小島子村、下津浦村、上津浦村枝郷下津江、溺死六拾七人、赤崎村溺死七拾人余り、須子村九拾人余り、大浦村同前、大矢野三ケ村之内ニて千人許溺死仕り、後地も同前風聞致候。四月六日印置。
(資料:あまくさの民俗と傳承-5- 57.10島原大変 肥後迷惑 北野典夫 より)
当事件を扱った小説に、「島原大変」白石一郎著 文春文庫 がある。
地元はもとより対岸から流れついた溺死者の供養塔が各地に作られている。以下確認したものだけを紹介する。
天草から見た雲仙岳 |
苓北町富岡新町、 寿覚院西生庵境内の碑 寛政7年4月10日、3年忌 建立 「両肥溺死萬霊等」と刻んである。 両肥とは肥前と肥後の意。 |
天草市五和町鬼池・ 若宮公園の碑 五和町教育委員会の案内標柱には次のように記してある。 文化財 寛政の津波供養塔 寛政4年の雲仙岳噴火による津波で周囲に打ち寄せた亡骸、百数体を葬り、慰霊のために建てられた供養塔である. |
苓北町都呂々浜の碑 「両肥溺死」とだけ刻んである。砂岩で台座を作り変えてあるため、下の刻字が消滅したのかもしれない。 |
天草市有明町赤アの碑 地元の人は、メントサマと呼ぶという。メントサマとは無縁塔様が転訛したものと考えられる。 享保9年(1724)年記刻。年代が合わないが、既存の無縁塚に、大変後、村人たちが新しい意味を付加したのではないか、と前出北野氏は言う。 |
天草市有明町下津浦の碑 刻字はよく読み取れない。 |
天草市有明町小島子の碑 寄人様 |
|
説明文 | |
下の写真は小島子寄り人様から見た雲仙岳。 右の平べったい島は天草島原の乱で談合島と呼ばれる湯島 |
文化財 寛政の津波供養塔 天草市五和町御領 黒崎海岸 案内文 ** 寛政4年の雲仙岳噴火による津波で周囲に打ち寄せた亡骸を慰霊のため建てられた供養塔である。 |
|
天然記念物 津波石 天草市五和町御領 案内文 ** 寛政4年(1792)雲仙火山活動により有明海一帯は最大50メートルの津波に襲われ、島原、熊本合わせて1万5千人が亡くなった。 この石は、その時の津波により海岸から打ち上げられたと伝えられている。 |