天草四郎
天草のシンボル!? 天草四郎の像が幾つか建立されている。それらを紹介しよう。
天草殉教公園の四郎像
天草切支丹館に建っています。
ここは本戸城址でもあります。
天草島原の乱の御霊を弔う千人塚もここにあります。
また、ここからは本渡中心街が見渡せます。春は桜の名所として、花見客でも賑わいます。
天草四郎時貞
この四郎像は郷土史家であり、彫刻家亀井勇初代天草切支丹館長が、昭和42年天草島原の乱の史実をもとに彫刻し、本渡市及び市内各種団体ならびに多くの人々の善意により、これを建立する。
昭和50年2月28日
本渡市長 横山寛人
天草四郎銅像建立世話人会
四郎像の横にある歌碑
四郎らは
世に幸あれと
祈りけり
命のかぎり
友と共々
川舟
天草市五和町鬼池港の四郎像
鬼池港は島原半島の口之津港へフェリーが通っています。
数万の信徒と共に、若い生涯を終えた、原城を見つめているようです。
残照に立つ 贈 (資) 松山建設 岩崎繁高 建立者 五和町 建立日 昭和57年5月 |
上天草市松島町パールセンターの四郎像
あまくさ五橋、4号橋前島橋を渡り、左に折れると、国民宿舎松島宛やパールセンターがあります。
また、四郎像の横には、与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もあります。
<碑文>
奇蹟をおこす天草四郎時貞
悽惨極まる切支丹弾圧の嵐と、苛酷な領主の圧政に、屈従と耐乏を強いられてきた、天草及び島原地方の農民たちは、宗門再興の聖旗を翻して一斉に蜂起した。時、寛永14年秋10月のことである。組織も訓練もない農民の集団であったが、そこには、ひたむきに信仰の火を守らんとする素朴な悲願がこめられ、鉄壁の団結があった。
そして、これら3万数千の農民が、救世主と仰ぎ、頭領と擁したのが、若冠16歳の天草四郎時貞であった。小西の浪人益田甚兵衛好次の子といわれる天草四郎は、幼より利発、□にすぐれて神童の称あり、長じて長崎に出で、医術を初め諸芸を学び、やがて天草の風雲急を告に及び、盟主に擁されて帰って来たのである。
一揆の火の手は、島原城下と天草の両所において、殆ど同時にあがった。天草では権力の中枢富岡城を猛攻したが、遂に陥すこと叶わず、退いて島原勢と合流し、原の城跡集結して守りを固め、幕府の大軍10余万に包囲されて、勇戦すること約3ヶ月 矢弾尽き果て遂に翌15年2月末日、全軍と共に玉砕して果てたのである。天主の教えを奉じて、楽土を夢見た天草四郎の雄図は空しく潰えたが、その信仰と反骨の血は、殉教戦の哀話として、永く語りつがれているのである。
田中昭策
この像は天より鳩を呼び奇蹟をおこしている姿である。 亀井勇
上天草市大矢野町
藍のあまくさ村に建つ四郎像
企画 像原型 初代天草切支丹館長 亀井 勇
彫 刻 所属 太平洋美術会 岩崎繁高
鋳 造 東京 三浦鋳造所
建立者 天草パールセンター 田辺広見
株式会社 藤 馨
本多郁夫
昭和50年3月吉日
天草四郎時貞(略記)
今を去ること350余年前、島原領主松倉勝家、天草領主寺沢堅高、両領民に厳しくキリシタン弾圧、苛酷な虐政により天草島原の乱おきる。
この両一揆軍の総帥に推されて若年15歳の天草四郎時貞指揮をとりますが、四郎のふるさとは大矢野であります。
四郎は大矢野越之浦出の益田甚兵衛好次と大矢野維和島出のマルタ(教名)との一子として生まれました。父甚兵衛好次は元キリシタン大名小西行長に仕えておりましたが、小西行長関ケ原合戦に敗死したので浪人となり、宇土、長崎方面にも転々として移住したと伝えられております。益田家は大矢野地方大庄屋渡辺家や近隣の庄屋家とも縁続きの素封家であったと記録されております。(大矢野町史より)
四郎は両親の薫陶よろしくを得て、「耶蘇天誅記」等に幼にして「儒・仏・神の三教を明らめ、詩をつくり歌を詠み弁舌流るる如し…」等称嘆の言述がなされ、容姿美麗で天童として誉がたかかったことが偲ばれます。
一揆軍は四郎を基に団決し、幕軍12万4千人に対し緒戦は善戦するも篭城すること90余日、兵糧尽き寛永15年2月28日、老若幼男女3万7千人原城の露と消えました。世界戦史上かつてない悲惨な悲運であります。
世の子もつ親として幼き子供達まで斬死を受けた惨状を偲ぶとき慟哭の感禁じ得なくただ冥福を祈るのみである。
平成2年10月1日
大矢野町郷土史研修同好会員
川上昭一郎 謹書
上天草市大矢野町
天草四郎公園の四郎像
ここの四郎像はシンプルです。
四郎像のすぐ下に、「天草四郎メモリアルホール」があります。ここでは映像をメインとして、乱関係の資料などが展示されています。
天草四郎ミュージアム
四郎は姓益田、大矢野の産、長崎にて神学を学び、後、郷里に帰りて伝道に努む。当時天草の領主寺沢氏と島原の領主松倉氏は、言語に絶するキリシタン弾圧と、極度の苛斂誅求とを敢行す。その苦しみに堪えかねたる両郡の住民は、寛永14年10月25日、遂に島原有馬郷に於いて殉教反幕の狼煙をあぐ。
越えて11月1日、大江源右衛門を始め幹部一同は、四郎のもとに来り、臣下の礼を以って仕えん事を誓う。四郎は、森宗意等首脳部50余人と共に談合島に上陸し、この地に於て秘策をねり、4日島原に渡る。
折りしも天草の風雲急なるを知り、自ら1500の部隊を率いて、13日上津浦の友軍を救援す。ここに至りて、両軍の信徒は、団結して原の古城にこもる。
その数無慮3万7千。之を包囲するは、徳川幕軍と九州諸大名の連合軍合わせて12万5千、攻防激戦を繰り返すも城固くして抜く能わず、寛永15年1月元旦、幕軍の主将板倉重昌以下多数の将兵戦死す。
松平伊豆守代って攻むれど容易に落ちず。伊豆急攻をさけて信徒の糧を絶ち、2月28日、悪戦苦闘双方の死傷数万城遂に落ち、四郎は城内礼拝堂内に於いて、細川藩士陣佐左衛門の槍にかかり昇天す。
年、時に若干16歳。残る信徒は大虐殺、又は炎々たる猛火の中にとび込み、或いは城壁より海に身を投じて全滅す。
世界史上比類なき悲劇、天草島原の殉教戦はかくして終れり。想うに稀有の人傑、四郎の生涯はまことに壮美短命、恰も桜花風に散るの風性あり。
春風秋雨328年、波静かなる宮津湾内の信徒待丘の上に立つ、この銅像を仰ぎ見るとき、洵に感慨胸をうつものあり。
西暦1966年9月10日 文書 森慈秀
設計者 森慈秀
銅像製作者 京都市高橋鋳工場 高橋文雄
工事請負者 植田建設 植田定喜
石工 田中亭蔵
天草四郎の墓 上天草市大矢野町天草四郎公園
天草四郎の本当の墓は島原半島にあるといわれている。原城に移されたとも。
近いうちに、じっくりと島原半島の乱遺跡を訪ねたいと思っています。
寛永15年2月28日原城内の会堂に於いて 細川藩士陣佐左衛門のために討たれる 年時に16歳の花の蕾であった これを弔い建立す 森 慈秀 |
原城址の四郎像と墓 南島原市
天草四郎ゆかりの里 宇土市