産業索引 | 2014.2.23更新 |
産業 漁業
深川卯次郎頌徳碑 天草市牛深町
上原典礼頌徳碑 天草市有明町赤崎
鮫島十内の碑 天草市苓北町富岡
牛深鰹流れ舟慰霊碑 天草市牛深町
上原典礼頌徳碑 天草市有明町赤崎 | ||
上原典礼は、漁業の項で取り上げたが、もともと医者でりあ漢学者であった。 典礼は天保3年(1832) 生れ。幼名礼太郎。 嘉永元年(1848) 4.21、17歳(数え)の時、豊後日田の碩儒広瀬淡窓の門に入る。その後、 熊本藩医深水玄門の門に入り、医学を学ぶ。20歳の時、先生の代診として横井小楠の脈を見る機会があった。その時、小楠から、漢方もよかろうが、蘭学をやってみてはどうかと勧められる。このころ、天然痘(疱瘡)が大流行していた。開学者の小楠は牛痘を人体に植えれば、疱瘡を予防できると知っていたのである。そして、長崎の町役人であり、絵師であり、医師であった木下逸雲に種痘術を学ぶ機会に恵まれた。この時、木下逸雲に種痘術の伝授を受けたのは、天草人で20名いたという。 なお、天草で最初に人痘接種を試みたのは、坂瀬川村の医師本郷玄成である。天保13年(1842)のときである。人痘法は危険であったが、牛痘法はまだ日本には入っていなかった。世界的には牛痘法が開発されたのは、1798(寛政10年)イギリス人医師ジェンナーによって発表された。日本には、文政6年(1823)シーボルトによって、この法が伝えられたが、有効な牛痘菌は不完全であった。やっと有効な菌が入ったのは、嘉永2年(1849)の時であった。 したがって、上原典礼らが牛痘法を学んだのは、まだできたてのほやほやの医術であった。 典礼は、安政4年(1857)26歳の時、本式に帰村し、養父の医業を助ける傍ら、村童たちに読書筆算を教えた。この時、から広瀬淡窓から貰った典礼を名乗った。 赤崎に帰った典礼は、医業のかたわら、明治初年、翆覆社という協同組合の組織を作り、洋牛を導入したり、自費を投じてイカナゴ漁業を起こしたりした。また、再度にわたる大火後の復興に貢献する。 この項は漁業であるので、いよいよ本題に入りたい。 上原典礼による有明海イカナゴ漁の創業について明治21年に官報に大きく紹介されている。その内容を記した毎日新聞社の『明治ニュース事典』によると。なお、玉筋魚とはイカナゴのことである。 玉筋魚漁獲の景況 熊本県天草郡赤崎村平民医業上原典礼は、常に殖産興業の志篤く、毎年春季に当たり、全郡沿海に玉筋魚(ヒシコイワシの類)の群遊するを見てこれが捕獲をを図り、村内漁業者四名を懇誘し、各旅費三円を補給し、一昨十九年年二月、該漁法法研究のためこれを福岡県筑前国宗像郡鐘崎村に遣わせり。 -以下概要- 4名のものは同地でイカナゴ魚の漁法を得ようとするが、同地の漁民は深く秘して教えようとしない。そこで、おのおの漁業者の雇い人となり、真面目に働いた結果、信用を得るようになった。そこで、村の発展のため、どうしても漁法を学びたいと打ち明けたけった、雇い主等は、この志と熱心さに、網器の仕立て方及び使用法を懇切に教え、更にそれを熟達した後帰村した。 そこで漁期(3月上旬から5月下旬)にイカナゴ魚の網を入れたところ、日々数石を捕獲し好結果を得た。 典礼は、村内の有志者にこの漁法を広めた。 このイカナゴ魚で高収入を得たのも見て、須子村など十数村からも続々と伝授を乞うてきたという。 〈資料〉 『大和心を人問わば 天草幕末史』 近代医学への道-朝陽堂典礼先生のこと- 北野典夫著 葦書房による [イカナゴ] Wikipedia |
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鮫島十内 の碑 苓北町富岡 岡野屋旅館裏 | |
江戸時代の天草漁業は、定浦制によって、漁業が制限されていた。定浦は当初7ヶ浦であったが、その中でも富岡は、坂瀬川から高浜までの、天草で最大の漁業権を与えられていた。 その 広大な漁場で働く漁民を牛耳って代々羽振りをきかせていたのが、網本鮫島家であった。 鮫島十内(幼名小七郎・十内は世襲名)、嘉永5(1852)年5月に生まれた。10歳の時、富岡の玉木西涯の門に入り、漢学筆道を学んだ。 当然、網元の長男として、家業に精を出したことは、言うまでもない。 明治17年5月、父親の死によって、十内を襲名。時に33歳。男盛りである。 彼は、義侠心に富んでいた。富岡沖では、よく遭難事故が起こったが、彼は率先して救助に当たり、数度熊本県知事より表彰を受けた。 さらに、鮫島十内の名を高めたのが、普段の熱心な研究によって、漁具や漁法、漁船の改良、開発をしたことである。 十内が開発した八田網は、その模型をシカゴ万国博覧会に出品、優等賞に入り、内外から好評を博した。 八田網を始めとした、漁法の改良等により漁獲高は一躍伸びた。しかし、それでも、明治中期になると、漁獲は激減し、経営は困難になった。 そんななか、明治36年11月22日、脳溢血により急逝した。享年52歳。 この鮫島十内を讃える碑が、林芙美子文学碑で有名な岡野屋旅館裏手に建っている。建立者は十内の外孫に当たる岡野正枝である。 堂々とした二段重ねの碑で、上部は英文で書かれており、シカゴ万国博に出品した八田網模型に与えられた優等賞状の文面。 下部は十内を顕彰文である。 〈『天草歴史談叢』田中昭策著を参考にしました〉 <碑文> 鮫島十内の碑 鮫島小七郎は嘉永五年富岡生れ。明治十七年十内を襲名。三十六年没す。享年五十二歳。天草漁業の偉大な先駆者なり。鰯網を苦心改良八田網を案出。世に十内網と称す。この漁具の模型は明治二十六年、シカゴ万国博にて金杯を受領、内外に注目さる。昭和四十三年秋、明治百年記念に当たり、西村農林大臣より大臣賞を受く。ここに、先達の偉業を讃え、昭和四十六年陽春佳日、岡田正枝この碑を建つ。 |
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