産業索引 2014.2.23更新

産業 漁業

深川卯次郎頌徳碑  天草市牛深町
上原典礼頌徳碑    天草市有明町赤崎
鮫島十内の碑     天草市苓北町富岡
牛深鰹流れ舟慰霊碑      天草市牛深町


 深川卯次郎頌徳碑  天草市牛深町
深川卯次郎は、安政5年生れ大正15年に69歳で歿している。
彼は、漁業の村牛深に生れた。父祖の跡を継ぎ、同地はもとよりの県内の漁業の発展に力を尽くした。
事蹟を追ってみよう。
 明治22年 熊本県漁業組合連合会議員
 明治24年 朝鮮海域の漁場開拓を自費で調査
 明治26年 天草郡漁業組合を設立し牛深選出天草漁業委員
 明治28年 朝鮮海域の漁業探検事務を実行(4か月)
 明治29年 8月、天草郡会議員(同32年2月)
 明治31年 12月1日より、牛深村から牛深町へ昇格すると同時に町長に就任(同35年3月まで)
 明治33年 3月より再び天草郡会議員(同40年10月まで) 
 明治36年 8月6日、牛深漁業組合設立認可と同時に初代組合長就任(歿年大正9年3月まで)
 大正 8年 2月、農商務大臣から漁業功労者として表彰される
 大正 9年 3月、再び牛深町長(同12年3月)
 大正11年 12月、頌徳碑建立

            〈資料〉 『天草 頼山陽・柳田國男 物語』 鶴田文史著 近代文芸社
                       碑文は同書を参照下さい。

 上原典礼頌徳碑 天草市有明町赤崎
 上原典礼は、漁業の項で取り上げたが、もともと医者でりあ漢学者であった。

 典礼は天保3年(1832) 生れ。幼名礼太郎。
 嘉永元年(1848) 4.21、17歳(数え)の時、豊後日田の碩儒広瀬淡窓の門に入る。その後、 熊本藩医深水玄門の門に入り、医学を学ぶ。20歳の時、先生の代診として横井小楠の脈を見る機会があった。その時、小楠から、漢方もよかろうが、蘭学をやってみてはどうかと勧められる。このころ、天然痘(疱瘡)が大流行していた。開学者の小楠は牛痘を人体に植えれば、疱瘡を予防できると知っていたのである。そして、長崎の町役人であり、絵師であり、医師であった木下逸雲に種痘術を学ぶ機会に恵まれた。この時、木下逸雲に種痘術の伝授を受けたのは、天草人で20名いたという。
 なお、天草で最初に人痘接種を試みたのは、坂瀬川村の医師本郷玄成である。天保13年(1842)のときである。人痘法は危険であったが、牛痘法はまだ日本には入っていなかった。世界的には牛痘法が開発されたのは、1798(寛政10年)イギリス人医師ジェンナーによって発表された。日本には、文政6年(1823)シーボルトによって、この法が伝えられたが、有効な牛痘菌は不完全であった。やっと有効な菌が入ったのは、嘉永2年(1849)の時であった。
 したがって、上原典礼らが牛痘法を学んだのは、まだできたてのほやほやの医術であった。
 典礼は、安政4年(1857)26歳の時、本式に帰村し、養父の医業を助ける傍ら、村童たちに読書筆算を教えた。この時、から広瀬淡窓から貰った典礼を名乗った。
 赤崎に帰った典礼は、医業のかたわら、明治初年、翆覆社という協同組合の組織を作り、洋牛を導入したり、自費を投じてイカナゴ漁業を起こしたりした。また、再度にわたる大火後の復興に貢献する。
 
この項は漁業であるので、いよいよ本題に入りたい。
 上原典礼による有明海イカナゴ漁の創業について明治21年に官報に大きく紹介されている。その内容を記した毎日新聞社の『明治ニュース事典』によると。なお、玉筋魚とはイカナゴのことである。

 玉筋魚漁獲の景況
 熊本県天草郡赤崎村平民医業上原典礼は、常に殖産興業の志篤く、毎年春季に当たり、全郡沿海に玉筋魚(ヒシコイワシの類)の群遊するを見てこれが捕獲をを図り、村内漁業者四名を懇誘し、各旅費三円を補給し、一昨十九年年二月、該漁法法研究のためこれを福岡県筑前国宗像郡鐘崎村に遣わせり。
 -以下概要-
 4名のものは同地でイカナゴ魚の漁法を得ようとするが、同地の漁民は深く秘して教えようとしない。そこで、おのおの漁業者の雇い人となり、真面目に働いた結果、信用を得るようになった。そこで、村の発展のため、どうしても漁法を学びたいと打ち明けたけった、雇い主等は、この志と熱心さに、網器の仕立て方及び使用法を懇切に教え、更にそれを熟達した後帰村した。
 そこで漁期(3月上旬から5月下旬)にイカナゴ魚の網を入れたところ、日々数石を捕獲し好結果を得た。
 典礼は、村内の有志者にこの漁法を広めた。
 このイカナゴ魚で高収入を得たのも見て、須子村など十数村からも続々と伝授を乞うてきたという。

   〈資料〉
      『大和心を人問わば 天草幕末史』 近代医学への道-朝陽堂典礼先生のこと-  北野典夫著 葦書房による


 [イカナゴ] Wikipedia

  鮫島十内 の碑  苓北町富岡 岡野屋旅館裏

 江戸時代の天草漁業は、定浦制によって、漁業が制限されていた。定浦は当初7ヶ浦であったが、その中でも富岡は、坂瀬川から高浜までの、天草で最大の漁業権を与えられていた。
 その 広大な漁場で働く漁民を牛耳って代々羽振りをきかせていたのが、網本鮫島家であった。
 鮫島十内(幼名小七郎・十内は世襲名)、嘉永5(1852)年5月に生まれた。10歳の時、富岡の玉木西涯の門に入り、漢学筆道を学んだ。
当然、網元の長男として、家業に精を出したことは、言うまでもない。
明治17年5月、父親の死によって、十内を襲名。時に33歳。男盛りである。
 彼は、義侠心に富んでいた。富岡沖では、よく遭難事故が起こったが、彼は率先して救助に当たり、数度熊本県知事より表彰を受けた。
 さらに、鮫島十内の名を高めたのが、普段の熱心な研究によって、漁具や漁法、漁船の改良、開発をしたことである。
十内が開発した八田網は、その模型をシカゴ万国博覧会に出品、優等賞に入り、内外から好評を博した。
八田網を始めとした、漁法の改良等により漁獲高は一躍伸びた。しかし、それでも、明治中期になると、漁獲は激減し、経営は困難になった。
そんななか、明治36年11月22日、脳溢血により急逝した。享年52歳。

この鮫島十内を讃える碑が、林芙美子文学碑で有名な岡野屋旅館裏手に建っている。建立者は十内の外孫に当たる岡野正枝である。
堂々とした二段重ねの碑で、上部は英文で書かれており、シカゴ万国博に出品した八田網模型に与えられた優等賞状の文面。
下部は十内を顕彰文である。

     〈『天草歴史談叢』田中昭策著を参考にしました〉

<碑文>

鮫島十内の碑

鮫島小七郎は嘉永五年富岡生れ。明治十七年十内を襲名。三十六年没す。享年五十二歳。天草漁業の偉大な先駆者なり。鰯網を苦心改良八田網を案出。世に十内網と称す。この漁具の模型は明治二十六年、シカゴ万国博にて金杯を受領、内外に注目さる。昭和四十三年秋、明治百年記念に当たり、西村農林大臣より大臣賞を受く。ここに、先達の偉業を讃え、昭和四十六年陽春佳日、岡田正枝この碑を建つ。
 碑文 荒木七一
 書  石橋青波