城跡目次   天草島原の乱  各地の天草四郎像


原城址
 
 
 
 史跡 原城跡
    国指定 昭和十三年五月三十日

 原城は、明応五年(1496)、領主有馬貴純(八代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。
 城は、県下最大の平山城で、周囲三キロめーとる、四一万平方メートル規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害である。
 城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。
 
   

板倉重昌の碑  

板倉内膳正重昌の碑

  延宝九年(1681年)造
  寛政九年(1797年)十一月建立

将軍家光の命に依り、征討軍の統帥として寛永十四年十二月九日着陣し、十二月十日・二十日総攻撃したが、農民・信者の勢いが予想以上に強く久屯の計を採った。然るに江戸では、十一月二十七日老中松平信綱を統帥に任じた事を十二月二十九日兄重宗の書によって知った。重昌寄手が退いたのを大いに怒り、槍を採って先頭に進み城に迫ったがついに胸部に銃弾を受け壮烈な戦死を遂げた。齢五十一歳。乱後三百五十年の今、板倉温故のご努力とご厚意により、板倉家縁の地、三河の銘石に刻し墓碑にかかわる事実を後世に伝えるためこの碑を建立する。

重昌辞世の歌

あらたまのとしにまかせて

 さくはなのなのみのこらば

   さきがけとしれ

 昭和六十二年 南有馬町教育員会

  

空堀〈からぼり〉   
空濠(からぼり)

 この低地は、島原の乱の時に防衛のため、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。

 寛永15年(1638)2月21日の夜襲軍4千余人は、食糧・武器庫等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが、失敗に終わった。
 籠城の間は、竹や木で柱を建て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。 

≪疑≫
 本丸を孤立させたら、いかんでしょう。それとも、わが身を犠牲にして、大将を守れというのでしょうか。
 また、老若男女というのもおかしい。若い男は戦闘員でなくて、どうする。
 

ホネカミ地蔵   
ホネカミ地蔵

 寛永15年(1638)2月28日、島原の乱は終りを告げた。
 ホネカミ地蔵は、明和3年(1766)7月15日有馬村願心寺の法誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、例を慰めた地蔵尊塔である。

 八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげる三万人も死んだげな小さな子供も居たろうに骨かみ地蔵に花あげろ」とうたっています。

「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する」(助ける。救う)と、理解すべきだと言われている。 

≪注≫
八波 則吉(やつなみ のりきち)
 国文学者


櫓台石垣   
櫓台(やぐらだい)石垣

 島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張出部分であります。この場所は、築城当時天守担当の重層の櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所であります。
 写真の絵図は、島原の乱の戦闘図で、描かれている石垣の張り出し部分はこの場所と推定それます。幕府軍は石垣をよじのぼろうとしているが、一揆軍は塀の上から石などを投げ落として必死で防戦しています。

         南有馬町教育委員会

本丸虎口跡   
 本丸虎口跡

 ここは、本丸北側の虎口空間帯に設けている最も本丸よりの虎口(出入口)で、島原の乱の後、徹底的に壊され埋め込まれていた所です。
 調査により、埋め込まれた礎石やグリ石と共に大量の瓦や人骨が出土しました。また、門柱礎石や虎口床面に玉砂利も検出し、ここに瓦葺の門(櫓門櫓門)があったとおもわれます。
 この門は他の門と違う本丸正面の門として、特に見栄と格式を重視したことがうかがえるとともに、厳重な防御力を備えたものでした。

 虎口・虎口空間帯
  虎口とは、城の主要な出入口のことで、虎口空間帯とは、門と石垣・掘りなどを組み合わせてできた城道と空地の連続した空間をいいます。城道を屈曲させ、門とその前後に設けた特別な広場を連続させることで、敵の城内への突入を防ぎ、城兵の出撃を容易にした防御と出撃のための専門空間であります。

                       南有馬教育委員会

 発掘によって明らかになった石垣破壊状況  

原城攻防布陣図表 
 

天草四郎像と説明版   
   史跡 原城跡
  国指定 昭和13年5月30日
 
 原城は、明応五(1496)年、領主有馬貴純(八代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。
 城は、県下最大の平山城で、周囲3km、41万uの規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害である。
 城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。
 慶長十九(1614)年、島原藩主有馬直純(十四代目)は、日向国県城(宮崎県)に転封され、元和二(1616)年、松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。
 松倉氏は、一国一城令により原城を廃城とし、元和四(1618)年から島原城(森岳城)の築城にあたり、構築用の石材として、この城の石垣等を運んだものとみられている。
 松倉氏の藩政は、領民へ過酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など、きびしく行ったため、寛永十四(1637)年、十月二十五日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起こった。
 原城は、同年十二月三日から寛永十五年二月二十八日まて、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれている)が88日間たてこもった「島原の乱」の終焉の地である。

 痛ましき 原の古城に来てみれば
  こともと咲けり 白百合の花

             新村 出

 平成二年三月三十一日 設置
  文部省
  南有馬教育委員会 
 

天草四郎墓碑   
 天草四郎時貞の墓碑

天草四郎
 小西行長の家臣、益田甚兵衛芳次の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
 比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
 島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。

 この墓碑は、西有馬町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。

 南有馬町教育委員会


原城址碑と湯島(談合島)   
 
城跡
 徳川幕府の キリシタン弾圧
 同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。
 天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の地獄と化した。
 時は、寛永十四年十二月(1637年)。
 幕府の征討将軍板倉内膳正重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。
 しかし、信仰に固く結束した、信徒軍の反撃に惨敗、重昌、自らも、戦死した。
 思わぬ苦戦に、あせった幕府は、老中松平伊豆の守信綱を急派。
 陸海両面より、城を包囲。
 やぐらを組み、地下道を掘り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。
 遂に、信徒軍の、食糧、弾薬共に尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と、相次いで落城。
 主将四郎時貞をはじめ、老若男女、全信徒相抱いて、古城の露と消えた。
 これ、寛永十五年二月二十八日である。
 その数、三万七千有余。
 思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ、幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。
 強大な武力と、権勢に立向かった、その団結と、情熱、信仰の強さ。
 遂に、悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に、痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを、内外に喧伝した。
 史家をして、
 「苛政に始まり、迫害に終わった。」
 と、いわしめた島原の乱。
 優美にして堅固。
 かつては、日暮城とまで讃えられた原城。
 いま、古城のほとりに立って、往時をしのべば、うたた、感慨無量。
 信仰に生き抜いた、殉難者の、みたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じえない。
 ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を、顕彰する次第である。

  昭和三十二年五月二十五日
    長崎県知事  西岡竹次郎


 石垣内隅部 石垣内隅部

 石垣の上部分を取り壊し、その石や裏込め石を投げ込み埋められていました。
 埋められていた石の他に大量の瓦も出土しました。
 瓦の出土は、乱当時何らかの建物があったことを示唆するものであり、廃城であったという定説を見直す大きな資料といえます。

 南有馬町教育委員会 
 城跡跡 城壁跡

 島原藩主松倉重政は、一国一城令により原城・日野江城を廃城とし、島原に本拠を構え、島原城(森岳城)を築城するため、ほとんどの石を運んだ。
 この石垣は、取り残された築城当時の遺構である。 
 天草丸 天草丸

 一揆軍が。本戸但馬・柴田六兵衛等の指揮のもと、天草郡の2千余名で守備したところである。
 一揆軍は、幕府軍の再三の攻撃を排除したが、二月二十八日の総攻撃では、黒田軍等の大軍の攻撃を受け後退した。「天草丸」は、これに因んだものである

 

供養碑   
 島原の乱 原城の供養碑

 島原の乱10年後(1648)荒廃した原城付近を見た代官鈴木三郎九郎重成は嘆き悲しみ窮状をに同情して首塚と思われる地に供養碑を建て乱当時の死者の霊を慰めると共にこの地の清浄息災五穀豊穣を祈願した
碑文は天草東向寺住職中華叟珪文の撰文である
 南有馬文化財保護審議会
碑文PDF、『天草代官鈴木重成 鈴木重辰関係史料集』 発行鈴木神社社務所発行 より  

  
写真は、2009年3月7日撮影