芳證寺
『天草近代年譜』 松田唯雄著には、芳證寺建立について、こう記してある。
正保二 是歳 重成、御領村字城内に禅寺一宇を創建、彼が先孝先妣の菩提寺たらしむ可く、その法号月岩證
心居士、圭壁貞芳大姉より執り月圭山芳證寺と号せしむ。この域、鎌倉末期に天草氏の出城あり、
足利末期には切支丹教会堂のありし所、また代官廻村の折りの茶屋を置きしも此処なり。
(注)先孝先妣=亡き父亡き母
また、『天草寺院・宮社 文化史料図解輯』 天草史談会 鶴田文史編 には、明治後期編『芳證寺日供』から引用として、次のように記している、
御代官鈴木三郎九郎重成公ナリ寛永年間邪蘇鬼利子丹変乱ノ為神社仏閣悉く破壊セシ后ヲ右重成公御下向ナリ秩序
回復セラレ仏法再興ノ為益峰禅師ヲ長崎皓台寺ヨリ拝請セラレ重成公居城ヲ同師へ寄付セラレ一ニハ両親ノ菩提ヲ吊ヒ
玉フ故に当山ノ寺号ハ右両親ノ戒名ノ字ヲ取テ命名セラル是レ本郡寺院建立ノ最初ニテ尓来禅浄土宗ノ寺院を郡内処ニ
建立セラル其開基タリ
(注)皓台寺の禅師とは、中華珪法。中華珪法は、芳證寺の他、明徳寺、正覚寺、観音寺、東向寺、明栄寺、金性寺の開山者である。
芳證寺山門前には、御領まちづくり振興会で、次の案内板が設置してある。
月圭山芳證寺大門額
当寺は正保2年(1645)の建立で、開祖は中華珪法。代官鈴木重成の両親の菩提寺としてその戒名をとり、月圭山芳證寺
と名つ゜けられ、寺領十二石を受く。芳證寺文書によると、この芳證寺は中世城跡であり、後にキリシタン教会が建ち、鈴木
重成時代には、お茶屋がおかれ、その後に芳證寺が建立されたと記されている。元禄13年(1700)焼失し、享保5年(1720)
再建落成。大門の山号の文字は、鈴木重成代官の筆跡である。
御領まちづくり振興会
芳證寺は古刹らしく、楠の大木が繁り、堂々とした風格を醸し出している。
また、東側の墓地には、第二の天草の乱とも称された、弘化の百姓一揆の先導者で義民と呼ばれている、御領組大庄屋長岡興就の墓もある。
寺社領 十二石
現代語訳
覚
一 御領村芳證寺本村御領村の内 高十二石
此の内二石は薬師堂領の事
一 寺屋敷東西24間(43.2m)、南北31間(225.8m) この他薬師堂屋敷東西12間(21.6m) 南北10間(18m) 同所廻り畑2反6畝(25.4アール)支配の事
一 寺外の山林小串村の内阿蘇友山 長さ184間(331.2m) 横20間(36m)支配 但し東西北は海手峰切 南は塩浜切の事
奥書年号月日 鈴木三郎九郎 印書版
芳證寺快学
※ 長興寺薬師堂 細川興秋建立
山門 |
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衆寮堂 |
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