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歴史を彩った人

三宅藤兵衛 富岡城番代 天草の乱初戦で戦死 
民吉 瀬戸焼中興の師
絹野信尚 天草筒(鉄砲)を作った


三宅藤兵衛の墓 天草市本渡町広瀬      

 その頃(天草島原の乱当時)、天草は佐賀唐津藩寺沢広高の領地であった。関ケ原の戦功として家康から拝領されたという。
 三宅藤兵衛は、乱当時の天草番代であった。番代とは、唐津本藩の筆頭家老級のもので、兵事治安関係の長官的な役割を持っていたという。
 三宅藤兵衛は、明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係にある。石高は3000石(3500石の説あり)、その知行地は佐伊津村、広瀬村、下河内村、本村であった。
 藤兵衛は、元和元年(1621)、七代目の天草番代に就任した。







 慶長8年天草は肥前(佐賀)唐津寺沢藩の飛び地となり始めて富岡に城を築き番代が置かれた、三宅藤兵衛はその七代目の番代である。寛永14年天草の乱勃発、藤兵衛も自ら兵を率いて本戸にこれを迎えた、寄せ手に天草四郎を盟主とするキリシタン勢、生死を恐れぬ宗徒の前にさすがの勇将藤兵衛とその手兵も遂に全滅の憂き目にあい自らも広瀬の泥田に憤死した時に五十七歳、山仁田の庵主遺骸をこの地に埋めてねんごろに弔ったという。
 天草市
 天草市観光協会







瀬戸焼中興の師 民吉  天草市市本町東向寺境内


 瀬戸窯の中興は民吉が東向寺の十五世天中和尚をたずね高浜佐々の皿山で研さんしたことにはじまる瀬戸市の生んだ天中と民吉の徳をたたえ謝恩の碑を建てる
 1957年の秋
 瀬戸市長 加 藤 章
 
天中民吉邂逅の図
 
 文化元年焼物技法習得の使命を担った瀬戸の民吉=
後に加藤性を許さる=は同郷出身の天中和尚=東向寺15世=を頼り天草へ来たる。高浜皿山での修業を手始めに肥前へと渡り更に修業を専らにす。刻苦四霜を経て磁器の制法、絵薬、染付の技法を学びとり初志を完とうして帰郷しこれを伝え広め、再び瀬戸焼の隆盛をみたり。
 瀬戸焼中興の師
    加藤民吉33歳 天中和尚59歳







天草筒を作った
絹野淡路之輔信尚の墓  天草市五和町井手

 天草・島原の乱で、農民主体の一揆勢がプロ集団である武士団、しかも12万人に及ぶ勢力に、かくも対抗できたのは、鉄砲を所持していたからだろう。
 もし、一揆勢に鉄砲がなかったら、簡単に鎮圧されたであろうことは、想像に難くない。
 それでは、一揆軍は鉄砲はどれくらい所持していたのだろうか。
 諸種の資料があるが、ある資料によると530挺があったとされている。
 これによって、幕軍死傷者8千余人(死者1100余人)に及んだ。

 その、鉄砲、天草筒を作ったのが、この絹野信尚といわれている。
 没年は、寛永十五戌寅年三月十日と刻んである。
 寛永15年といえば、原城が落城した年である。
  原城落城 寛永15年(1638)2月28日
 
 
 



  五和町指定文化財

 絹野信尚は種子島で鉄砲づくりを学びこの地で「天草筒」を作った。
 天草島原の乱に天草筒がその威力を発揮したと伝えられる。
 
 五和町教育委員会