古墳・墳墓
天草市の古墳 | 妻の鼻墳墓群 | 天草市佐伊津町明瀬平 |
楠浦新田古墳 | 天草市楠浦町新田 | |
須森古墳 | 天草市下浦町 | |
大松道古墳 | 天草市志柿町 | |
沖の瀬古墳群 | 天草市栖本町 | |
宮崎石棺墓群 | 天草市倉岳町棚底 | |
上天草市の古墳 | 千崎古墳群 | 上天草市大矢野町 |
広浦装飾古墳 | 上天草市大矢野町 | |
長砂連古墳 | 上天草市大矢野町 | |
大戸鼻古墳群 | 上天草市松島町阿村 |
妻の鼻墳墓群 天草市佐伊津町明瀬平 | |||||
妻の鼻墳墓群 概説 経過 @ 妻の鼻(つまんはな)から人骨が出ることは古くから知られていたが、天草の乱の戦死者であると信じられていた。 A 昭和32年11月、当時の本渡中学校教諭鶴田倉造氏は、1基の石室を発掘し、鉄釧などの副葬品を発見し、これらが古墳である事を確認した。 B この遺跡地に、ホテルを建設計画が持ち上がり、遺跡の消滅を憂いた建設主は、工事着手前の調査を希望した。 C これに対し、本渡市教育委員会は専門家に調査を依頼した。 D 調査の結果、大規模な古墳群であることが判明した。 E ホテル建設に対し、古墳群を避けて、墳墓群を全面的に残すことを検討したが、多くの人骨が埋葬されたままでは、不都合との事で、発掘を行い、妻の鼻によく似た地形の、2.8q北の佐伊津明瀬平に、国際ホテルより無償提携を受け、移転することになった。 F それより先、昭和48年8月27日に、熊本県重要文化財に指定された。 G 移転復元は、昭和49年4月に実施された。 様式と @ 面積 東西28m、南北23m A 基数 35基 B 墳墓の形式 地下式板石積石室墓 C 遺物 人骨(101体以上)・刀・剣・鉄矛・鉄鏃、釧(くしろ)・鏡・玉類・土器 以上 「本渡市文化財調査報告第1集 妻の鼻墳墓群」 昭和57年3月31日 本渡市教育委員会 発行 より 詳しく知りたい方は、上書を参照ください 《現地説明板》 熊本県指定文化財 考古資料 妻の鼻墳墓群 指定年月日 昭和48年8月27日 管 理 者 天草市 妻の鼻墳墓群は昭和42年・43年に発掘調査が実施され、地下式板石積石室墓と呼ばれる形態の墓が35基群集していることが確認された。 副葬品は刀・剣・鏃(やじり)・矛(ほこ)など攻撃用武器が圧倒的に多く、鏡や玉などの装身具が少ないのが特徴である。墓制・副葬品は、南九州地方に広がる地下式板石積石室墓特徴に共通したものであるが、鹿児島地方に分布する同系墳墓の平面図は円形プランが多いのに対して、この墳墓はすべて長方形プランとなっている。年代は5世紀後半から6世紀前半ごろに位置づけられる。 妻の鼻墳墓群は旧本渡市亀場町に所在していたが、昭和49年4月に現在地に移転復元された。出土品は、天草市立本渡歴史民俗資料館で一般公開されている。 《旧現地説明板》 熊本県指定文化財 考古妻の鼻墳墓群 指定年月日 昭和48年8月27日 管理者 本渡市 この墳墓群の副葬品は、刀・剣・鏃(やじり)・矛(ほこ)など攻撃用武器が圧倒的に多く、鏡や玉などの装身具が少ないのが特色である。これらは、南九州地方に広がる地下式板石積石室墓に見られる共通したものであるが、鹿児島地方に分布する同系墳墓の平面図は円形プランが多いのに対し、この墳墓はすべて長方形となっている。出土品は、本渡市立歴史民族資料館で一般に公開している。 熊本県指定重要文化財 妻の鼻墳墓群 古来、天草は海への前進基地であり海上遠く押し渡った古代豪族の墓地が、この古墳群で、もと本渡市妻の鼻にあったものを、この場所に移して復元したものである。 五世紀ごろの造営で、石室構造は地下式□積み型板石積み石室とよばれ、鹿児島県大口盆地、熊本県人吉盆地などで多く見られるのである。一基の石室内に五体〜十二体が合葬され、遺体はいずれも海に面した東側に頭をむけていた。石室内から鏡・鉄剣・鉄鉾・銅剣・勾(まがり)玉など副葬品が多数発見された。 移築に当たって各古墳の距離間隔方向は大体原状どおりであるが一部の石室は場所の関係で傾斜面に復元してある。原状では各石室は、ほぼ同一平面上にあった。 昭和49年5月1日 本渡市教育委員会 |
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妻の鼻墳墓群跡地 天草市亀場町亀川 ドラッグストアモリ 駐車場(南) 五世紀頃の海洋民族の家族墓35基跡で昭和42年に発掘・昭和49年に明瀬平に移転復元されました。 本渡市教育委員会 |
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大戸鼻古墳群 上天草市松島町阿村 | |||||
熊本県指定史跡 大戸鼻古墳群 昭和48年11月26日指定 この古墳群は八代海と島原湾を結ぶ海上交通の要衝大戸の瀬戸に突出する細長い丘陵上に並ぶ5基の古墳からなり6世紀中頃築造と推定されている。 南古墳は高さ1メートル、幅0.9メートル、奥行2メートルの砂岩を使用した石室(または石棺)があり、南の壁面には2個の円文が印刻され、その1つは紐を吊るした鋸歯文を描いた鏡と思われる。北古墳は直径2.5メートル、高さ4メートルの円墳で高さ及び幅各1.9メートル、奥行き2.1メートルの石室の中には、砂岩を使用した4枚の低い石障があり、この石障にコンパスを用いて描いたと思われる円文7箇が印刻され、全面に赤色の顔料が塗られている。 その他3基の古墳には装飾文は見ることができない。なおこの古墳群に、昭和49年の保存修理工事によって整備されたものである。 熊本県教育委員会 (註) この案内板は旧く一部判読が困難のため、誤りがあるかもしれない。 |
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天草郡松島町大字阿村大戸鼻古墳は、大戸岬の標高50mの尾根に並ぶ古墳群で、昭和48年11月26日に県の指定を受けました。 5基の古墳がありましたが、現存するものは4基、その内南古墳 と北古墳が装飾古墳で6世紀頃のものと推定されます。 ○南古墳 南古墳は、板状の砂岩を組合せて作った長さ2m、幅0.9m、高さ1mの箱状の石室です。 昭和49年に復元のため、剥き出しだった石室の石材に強化処置を施し、保存に努めています。 ○南古墳の装飾古墳 南壁に園文と鏡を吊るしたような模様が刻まれています。 ○北古墳 北古墳は、直径25m、高さ4mの低い円墳、南に小さな入り口(羨門)が開く奥行2.1m、幅1.9m、高さ1.9mの横穴式石室をもち、石室のまわりの石(石障)の正面に三つ、東側に四つの門文が刻まれ丹が塗られています。 ○南箱式石棺 南箱式石棺は、南古墳の前にあり、以前石材に円文があり、丹が塗られていたといわれますが、剥離しているため今は見ることができません。中古墳は、横穴式石室を持つ円墳ですが、墳丘も石室の天井も羨道部も失われています。以前、鉄鍬、須恵器・匂玉・ガラス玉等が出土したといわれています。 この古墳の東斜面にも古墳がありましたが現存しません。 この古墳群は、天草では例が少ない装飾古墳であり、変わった形をもつ古墳が群を作っていることとあいまって、学術上貴重なものであります。因みに、天草の装飾古墳は僅かここ大戸鼻古墳と大矢野町長砂連古墳・維和の広浦古墳だけであります。 保存のため古墳内部は公開しておりません。 松島町教育委員会 |
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須森古墳 天草市下浦町 | |||||
本渡市指定文化財 須森古墳 指定年月日 昭和50年6月13日 所有者 小島てる子 西方に羨門を構えた横穴式石室の円墳で玄室は長さ2.1m、幅1.4m、天井2.2mある。玄室の壁面基部に据えた腰壁石には丹が塗ってあり、古墳時代後期(6世紀)に造営されたものである。昔このあたりは地形、古墳の所在等から考えて栖本、下浦対岸の楠浦、大多尾と共に海に生きる部族の有力な基地を形成していたと思われる。 本渡市教育委員会 |
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楠浦新田古墳 天草市楠浦町 | |||||
天草市指定文化財 楠浦新田古墳 指定年月日 昭和33年5月1日 楠浦新田古墳は六世紀後半頃に築造された古墳で、概ね10メートル前後の円墳と推定される。天草市内では最も当時の形を残している古墳の一つで、天井部がドーム型の肥後型横穴式石室である。玄室の平面形はほぼ方形で、幅2.3メートル、奥行きが2.5〜2.7メートル、高さ2.4メートル。古くから開口していたため副葬品は不明だが、石室内からはガラス玉一個が採集されている。また古墳周辺から六世紀後半頃の須恵器が発見されており、古墳と同時期のものだろう。近辺の水田は近世以降に干拓にり水田化されたものである。それまでは入り江が広がっており、おそらく古墳は海を見下ろすような位置にあったと考えられる。 天草市教育委員会・天草市楠浦地区振興会 |
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大松道古墳 天草市志柿町 | |||||
本渡市指定文化財 大松道古墳 指定年月日 昭和46年4月26日 管理者 有江輝広 東西に羨門門を構えた横穴式石室の円墳で玄室は長さ2.2m、幅2.2m、天井高2.5mある。奥壁では床面より1.7m程の高さで石棚が突出している。原形を保っている数少ない古墳の一つで、当時は近くまで入江になっていたと考えられる。古墳時代後期(6世紀)の造営と思われる。 本渡市教育委員会 |
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