索引 | 2011.04.17UP |
天草国府の趾 天草市五和町城木場
かつて天草は一国であった。
その国府跡といわれるところが天草市五和町城木場にある。
『天草近代年譜』松田唯雄著には次のように記してある。
「國造の下向
皇威漸く東西に及ぶに至った成務朝の五年、山河の形成により全国を分ちて、それぞれ国に国造(くにのみやつさ)、郡に縣主(あだかぬし)の増置をみたが、我が天草もこの折一国に数えられ、神魂命十三世孫建島松命(たけしままつのみやこ)が、初代天草国造として遙々下向されている。
即ち、一行の屯した公署の在所としては、大宅島(公島・あほやけしま)の略称だといわれる大矢野島のうち、それも柳浦辺かと推せられ、後には種々下界との交渉かさむにつれ、内海の東端へ僻在するを許されなくなったものと見え、漸次南下して上島の宮田あたり、更に南下して下島の城木場(城河原)へと移庁されたようである。
全国で144国、現熊本県は、阿蘇、葦北、天草の三国が記されている。
※ 成務朝=第13代政務天皇。ただし、実在が疑われている。実在したとしたら4世紀中ごろか。
神魂命=カミムスビ。日本神話の神。
上田宜珍の『天草島鏡 天草風土風』には、天草の語源から天草国造以降、天草の古歴史が述べられているが、旧文体で書かれているため難解である。
現在文にかつ解説を付けて、どなたか訳していただければと思う。
【参考文献】
天草嶋鏡 天草風土考 上田宜珍著
天草近代年譜 松田唯雄著