古搭・板碑
亀川古寺古塔群 | 天草市亀場町亀川 | |
伊賀倉権現古塔群 | 天草市楠浦町 | |
五輪の塔 | 天草市新和町大宮地 | |
南梵字と礎石 | 天草市本渡町 染岳霊場 | |
立浦の板碑 | 天草市楠浦町立浦 | |
尾越の板碑 | 天草市船の尾町 | |
下浦丸田薬師堂の梵字板碑 | 天草市下浦町戸ノ崎 | |
大権寺塔群 | 天草市倉岳町棚底 | |
澄泉寺跡 五輪の塔群 | 上天草市松島町教良木 | |
山浦の磨崖碑 | 天草市栖本町山浦 | |
小が倉観音磨崖碑 | 天草市栖本町河内 | |
姫様の墓 | 天草市二浦町亀浦姫野河内 |
亀川古寺古塔群 天草市亀場町亀川 旧亀川中学校上
伊賀倉権現古塔群 天草市楠浦町
大宮地五輪塔 天草市新和町大宮地
天草市指定文化財 大宮地五輪塔 指定年月 昭和50年2月18日 五輪塔は加工された5つの石の組み合わせで構成され、万物の五大要素をあらわすという中世の石塔です。古来、供養塔や墓標として用いられました。この大宮地五輪塔は、その形式から概ね鎌倉時代にかけてのもので、特に大きなものは高さが140㎝ほどで、天草でも最古の部類に入ります。中世において、民衆は墓に墓標をおく習慣はなく、これらは必然的に付近一帯を支配していた宮地氏のものと考えられます。宮地氏は、天草五人衆天草氏の一族で、現在の新和町大宮地、小宮地、宮地浦を中心に勢力を持っていたとされます。また一時は志岐氏と領地争いをしたことでも知られています。 平成22年3月 天草市教育委員会 |
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[ 参考 新和町当時の説明板] 新和町指定文化財 五輪の塔 新和町は鎌倉時代に菊地氏の一族宮地弥次郎の領有で、その子孫代々宮地城にあって約200年間統治している。その宮地氏の菩提寺と考えられる大宮地西光寺跡の境内と、それより少し離れた山中に31基の五輪塔群がある。時代は鎌倉期のもの2基、あとは室町期に至る形式のもので、宮地氏ゆかりの五輪塔にまちがいないと云われており、昭和50年2月町文化財に指定、保存されている。 |
南梵字板碑と礎石 天草市本渡町 染岳霊場
本渡市指定文化財 南梵字板碑と礎石 指定年月日 昭和49年3月19日 管理者 中村二人 もと沖の浜、新地の溝の中にあったもので円の直径50cm厚さ12cmである。一種の供養碑で中央の5つの梵字は、□(空)□(風)□(火)□(水)□(地)の五大をあらわし周囲の25字は光明真言の経文の一部を示し、これによって菩提を得んとするものである。造刻の時代は明らかでないが中世のものであろう。 本渡市教育委員会 ※ 《註》□は記号、写真参照 ※ 説明板は本渡市のまま(2015年12月28日確認) |
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以下は、『天草郷土史考』山腰雅春著 より転記 供養塔 円盤の中央に真言五仏梵字を彫り、周囲に光明真言灌頂陀羅の梵字を彫る。台座の梵字は中央が不動明王、右がコンガラ、左がセイタカ童子。 礎石 梵字は巨大にして多聞天皇の種字、城郭や寺院の礎石にしたものと判明。多聞天皇なれば東方の柱の礎石ならんとの事。 この二つは、十万山中に天草氏の城砦が築かれていた証拠となり、しかも石質古く前期天草氏時代、少なくとも6、7百年の星霜を経たものと思われる。 |
立浦の板碑 天草市楠浦町立浦
天草市指定文化財 立浦の板碑 指定年月日 昭和49年3月19日 管理者 立浦区 板碑の上部中央に阿弥陀如来像、下部中央に銘文、その両側には碑の建立者である夫婦と思われる男女の法名と「逆修」の文字が刻まれている。逆修とは生きているうちに自らの余生の安寧と死後の冥福を祈って仏事を行うことを指し、そのためにこの碑を建立したと考えられる。銘文は一部欠けているが『金剛般若経』、『法華経薬草喩品』からとった経文と考えられる。 板碑が建立されたのは、天文8年(1539)、戦国時代である。これは天草にキリスト教が伝来する直前のことであり、この立浦の板碑は、今に残る中世の仏教関連遺跡として大変貴重である。また、この近辺は「寺山」と呼ばれ、五輪塔の残欠も見られることから、中世頃には寺院があったものと考えられる。 天草市教育委員会・天草市楠浦地区振興会 |
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[参考 本渡市当時の説明板] 本渡市指定文化財 立浦の板碑 指定年月日 昭和49年3月19日 管理者 楠浦町立浦西区 このあたりは寺山と呼ばれ古い寺があったところである。この板碑は信心深い老夫婦が存命中受戒して死後の安楽を願ったもので、中央上部に阿弥陀如来坐蔵、その下に碑文、右に男、左に女の戒名が刻んである。碑文は金剛般若経からとり、建立は天文8年(1539)2月になっている。 本渡市教育委員会 |
尾越の板碑 天草市舟之尾町 衹園橋近く 衹園社裏
下浦丸田薬師堂の梵字板碑 天草市下浦町戸ノ崎
大権寺古塔群と大権寺遺跡 天草市倉岳町棚底
ここ倉岳町字大権寺は「寺」の地名を持つことから、古くから「棚底城」の菩提寺 といわれてきました。それを物語るように、五輪塔や宝塔などの中世石塔が残っています。石塔は完存するものはなくすべて残欠ですが、その部材数は300にも及ぶほど膨大で、文字通り大きな勢力を持った寺院が存在した可能性があります。そのうちに南北朝~室町時代の年号を刻むものもあり、特に「延文三年」(1358)銘の紀年名は天草の石塔で最古のものであります。 菩提寺伝承と石塔の存在から、平成18~20年にかけて天草市教育委員会により発掘調査が行われ、中世寺院に関連すると考えられる石段遺構や石積遺構が検出されました。この他に青磁、白磁、土師器片など主に15世紀頃の生活遺物も発見され、大権寺遺跡と呼ばれるようになりました。国指定史跡「棚底城跡」は東に約400m離れていますが、同時代に存在したことが発掘調査によって明らかになり、両者には強い結びつきがあったとかんがえられます。 |
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澄泉寺跡 五輪の塔群 上天草市松島町教良木(教良木小学校裏)