御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就公 興就公は天保3年(一八二二)父、興生公の死去により十六歳で第十一代御領組大庄屋となりました。 そのころの天草は、ひでり、作物病虫害、風水害、はやり病、大火などに加えて、幕府が取り立てる重い年貢米のほかに、諸経費として法外なお金を割り付けるなど、自然災、人災が容赦なく島民を苦しめたのです。 永年に亘るこのようなくらしの惨状を憂えた興就公は、富岡代官所に出向いて島民の生活苦を訴え、救済方を再三に亘って願い出ましたが、代官所は聞き入れませんでした。 そこで興就公は意を決して江戸に上がり、弘化二年(一八四五)十二月、江戸幕府老中筆頭阿部正弘公の登城途中に「天草の百姓が安心して農漁業を続けられる仕法(法律)を公布してほしいと、幕府が厳しく禁じた「直訴」を命がけで行いました。 その結果「天草百姓相続方仕法(あまくさひゃくしょうあいつづきかたしほう)」が公布され、島民は大いに救われました。 |
|
長岡興就像 天草市五和町御領 天草市役所五和支所 |
|
|
|
御領神社二の鳥居 天草市五和町御領 御領神社 |
|
天草市指定文化財 御領神社二の鳥居 指定年月 平成3年2月15日 所 有 者 御領神社 この鳥居は、十一代御領組大庄屋の長岡興就(おきなり)により奉納されたものである。 興就は農民救済のため、当時ご法度である越訴(おっそ)を行い、「百姓相続方仕法」の再発布を懇願した人物である。その後、仕法は発布されたが、興就は越訴の罪を問われ入牢、その後一時帰宅を許されるが、弘化四年(一八四七)の一揆の後、首謀者である古江村庄屋の永田隆三郎と共に捕えられ、四年後には大庄屋役を没収されている。 興就は明治二年に没し、墓地は芳證寺境内にある。この鳥居は越訴の七年前に建立されたもので、柱に「願成就 長岡五郎三郎源興就」とあり、興就の悲願の程が伺える。 平成21年3月 天草市教育委員会 |
|
|
|
大庄屋長岡家墓地 五和町御領 芳證寺墓地 文化財 |
|
大庄屋長岡家墓地 文化財 中央に長岡家の始祖細川与五郎興秋公(細川忠興公とガラシャ夫人の第2子)の墓碑があり、大庄屋、九代長岡五郎左衛門源興道が享和2年(1802)に再建したものである。向って右端には弘化2年(1845)農民の窮状に堪えかね百姓相続方仕法の復活を願い江戸幕府へ直訴をした義民、第十一代大庄屋、長岡興就公の墓碑がある。なお長岡家歴代の古墓地はこの地の東側に存在する墓碑群がそれである。 |
資料 長岡興就の像・興就祈願の鳥居 (pdf)
長岡興就の墓。長岡興秋主従の墓 (pdf)