永田隆三郎 弘化一揆の指導者
古江村(現栖本町)に、二基の石塔がやや離れた位置に建っている。 その石塔にはほぼ同じで「文政十一戌子年十二月日 南無阿弥陀仏無縁法界平等利益 施主 永田隆三郎」と刻まれている。 文政十一年は、忠敬の天草測量の18年後である。この年の8月には、未曽有の暴風雨に見舞われている。 「近代年譜」によると天草郡の被害は。 |
||
損壊田 1099町余。 損壊畑 235町余。 全壊家屋 4686軒。 半壊家屋 1415軒。 神社倒壊 30社。 鳥居 10本。 寺院倒壊 10寺。 並木松倒木 89本。 留山痛木 1万本。 その他損木 8975本。 廻船破損 23艘。 同流失 2艘。 漁船破損 546艘。 同流失 287艘。 伝馬船破損 305艘。 同流失 266艘。 溺死人 22人。 潰家死人 11人。 同怪我 2人。 牛馬死亡 13頭。 同流失 6頭。 同怪我 4頭。 |
||
大変な被害である。また同年四月には、大地震が度々起こり、高潮による被害が発生。五月には、阿蘇山が噴火し、降灰が起き、更に風水害も別に発生している。 天変地異はこの年に限ったことでなく、毎年のように起きている。このような稀にみる凶作が起きているにも関わらず、為政者は年貢増税を押し付けている。 また、貨幣経済の発達に伴い、借金の方に田畑を取り上げられた農民の困窮に胸を痛めたのが、古江村庄屋永田隆三郎であった。 この農民困窮は1700年半ば頃から始まっていた。ただ幕府も、天草の徳政令といわれる「百姓相続方仕法」を寛政八年(1796)出して農民を救ってきた。この仕法の期限が期限切れとなった天保年間に、再び仕法の復活を求めて、農民は立ち上がり、御領村大庄屋の長岡興就は、江戸越訴を決行する。さらに、永田隆三郎を中心とした天草の農民は、大規模な一揆を起こす。これが第二の天草の乱とも言われる銀主や庄屋宅の打ち毀しの「弘化の大一揆」である。 永田隆三郎は、百姓の人権・生活向上を求め、神社鳥居の寄進や石塔の建立をしてきたが、結局最後の大仕事として、自らの命を懸けて、百姓たちのために闘った。 |
永田隆三郎関係史跡・碑等位置図 |
参考図書
『天草法界平等物語』 鶴田文史著 近代文芸社 2006.10.1
『西海の乱 天草民衆運史』 鶴田文史著 西海文化史研究所 205.12.31