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上津浦城址
 こう    つ    うら 
 天草市有明町上津浦
 
上津浦城は天草五人衆の一人、上津浦氏の居城である。
この城跡は、五人衆の居城でただ一つ、発掘調査が行われていなかったが、 このほど市の教育委員会によって、発掘調査が行われた。
その発掘調査現地説明会の資料を手に入れたので、以下かいつまんで紹介したい。

 上津浦(こうつうら)氏とは
 上津浦氏は、戦国天草時代まで、天草を支配を支配していた国人領主、、いわゆる天草五人衆のひとりである。
上津浦氏は現在の天草市有明町を中心に勢力を持っていた。
14世紀前半の古文書に上津浦次郎入道という名があることから、この頃から上津浦氏の存在が確認されている。足利尊氏が室町幕府を開いたころだ。
16世紀前半になると、天草五人衆は、互いに覇権争いを繰り返す。
上津浦氏は、人吉の相良氏と組んだりして、他の五人衆と幾度も抗争を繰り返している。(1532年・33年・44年・51年・56年・58年・60年・64年・65年など)
天草五人衆といえば、キリシタン領主としても有名だが、上津浦氏も、五人衆の中では最も遅く、キリシタンとなる。(1590年) 時に天草は、天正の天草合戦(1589年)により、小西行長の支配下に置かれていた。
上津浦上の北600メートルの位置にある正覚寺(通称南蛮寺からは、キリシタン墓碑が発見されている。

 上津浦城址
 城は二つの小高い丘に位置していたといわれ、主廓は長さ250m、幅100m位の細長い。また、まだ発掘調査はされていないので、伝二の丸とされているのは、主廓から中心間の距離150m位に位置している。
建物遺構は、5間×3間以上の建物だったことが判明している。
構造的には、掘立建物に近いものだという。

 上津浦城址全景
 左側の丘が主廓・右の丘が二の丸(伝)

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 発掘調査を終えて、埋め戻されている状態

 五輪の塔